wata
茨城県内で吉田神社といえば常陸国の三の宮。水戸市内にいくつもあり本営は宮内町となっています。由緒ある神社なので分霊して祀る神社は少なくありませんが、水戸藩の寺社改革とも密接な関係があると知られています。
今回紹介する河和田の吉田神社もそのひとつ。江戸時代初期に八幡宮が改められて吉田神社になった歴史があります。八幡宮時代にも興味深い伝承がありますので、しっかりとシェアさせていただきます!
この記事でわかること
- 由緒とご祭神
- 当社と松の関係
- 御朱印のいただき方
全国的に知られる京都の吉田神社とは無関係です。
由緒
後三年の役の折、源義家(八幡太郎)が当地を通過。
社伝によれば当地の長者塩沢金兵衛が義家群を歓待。暮であったので門松を立てて祝福、義家も又正八幡宮に武運長久、大任完遂を祈願した。
大任を果たした義家が当社に参詣。塩沢氏に軍配団扇を与えて厚く礼を述べた。塩沢氏はこの団扇を神体のごとくして崇敬した。
大掾氏の家臣・鍛冶弾正貞国(川和田入道)が川和田城を築城。
鍛冶貞幹の代で江戸通房により居城が攻略される。それにより川和田城は江戸氏の重臣春秋氏の居城とされ拡張開始。
当社は鬼門除けの守護神として実城の東北に当たる現在地に造営および遷宮される
※春秋氏は佐竹氏によって攻略される天正18年(1590年)まで川和田城を死守。守護神であった当社は特別な神徳があるとされ、住民の信仰も篤かった
団扇の保存を苦慮した東原の山口九郎左衛門が箱を奉納。
水戸藩主徳川光圀の寺社改革の影響を受け、八幡宮を改め三の宮から分霊し吉田神社となる。
除地13石5斗1升8合。なお滝沢氏が世襲で奉務した。
境内社の富士、浅間神社を鎮祭。
手水石が奉納される
※講和記念
神木の巨杉が枯れたため伐採
境内のモミが市の保存樹に指定される
ご祭神は日本武尊です。由緒にあるように水戸藩の寺社改革をきっかけに常陸国の三の宮である吉田神社(宮内町)から分霊してお祀りしています。
当地は古くから開発されており、塩街道が貫通し物産の市があって繁盛していたとか。中世の築城(川和田城)には城下町があったかもしれませんね。
当社最大の特徴は義家から授かったという軍配団扇の存在でしょうか。現存するものは長者(塩沢氏)が奉納したものなのだそう。同団扇は昭和26年に文化財指定を受けているのですが、規定の変更があったのか現在は県や市の文化財リストに加えられていません。
当社は前期水戸藩の寺社改革によって「八幡改」にあった神社としてよく挙げられます。ただ、それについては怪しい説も多々見受けられるので注意が必要です。
たとえば当時の藩主である徳川光圀公(以下義公)が前領主であった佐竹氏の影響力を削ぐためにしたという説。八幡神は源氏の守護神とされていたので清和源氏である佐竹氏も氏神として崇敬していました。
しかし、徳川家康も公称は清和源氏なので、その血を継ぐ水戸徳川家も同系です。佐竹氏の否定のために自らと関係が深い八幡信仰を改めさせたというのは大きな疑問が残ります。
ちなみに八幡神は武勇で知られる源義家が石清水八幡宮で元服し、その後に大きな成果を挙げたことから守護神と考えられるようになりました。義家を「八幡太郎」と呼ぶのはそのことに由来します。
さらに義公に廃仏思想があったので社僧を排除したという説は義公が新たな寺院を立てていることから否定され、神仏習合を嫌ったという説は内容によりけりといったところです。義公は修験を容認していますからね。
「八幡改」は幕府の神社条目の精神に則り、領民を惑わせないための政策の一端であって義公本人の信仰とはほとんど関係ないと思います。義公の生真面目な性格が誤解されて広まっているようですね。
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平成24年(2012年) モミ(市指定:保存樹)
アクセス
最寄りICは常磐道の水戸IC。下りてから約10分。国道50号の河和田の交差点を北東に進むと正面の鳥居が見えてきます。
駐車場は市民センターの入口がある赤塚駅南中央通り側から入れます。参拝者は多くありませんので、問題なく駐車できるでしょう。
名称 | (河和田)吉田神社 |
住所 | 茨城県水戸市河和田2895 |
駐車場 | あり |
Webサイト | なし |
鳥居
駐車場がこの鳥居の先にあるので参道を逆走して参拝開始。
見ての通り境内はさほど広くないのですが、それは土地開発に協力をしたためで隣接する桜川市民センターは当社の境内だったそう。
右側の社号標は少し隠れていてわかりにくいものの「村社」の文字が彫られています。『茨城県神社誌』によれば大正7年に建てられたそうなので、旧社号は当時の名残でしょう。
また、正面の明神式の鳥居は昭和26年に講和記念として建てられました。「講和」はサンフランシスコ講和条約のことで大東亜戦争の大きな区切りですね。
参道
参道および境内には細めの杉が並んでいます。昔は松が多く植えられていたそうですが、虫害によって次々と枯れてしまいました。いわゆる松食い虫の影響でしょう。
当社の由緒には八幡太郎を松で迎えたとありますので松には縁が深い模様。それに松は「鬼門」にも通じるミステリアスな植物なので、特に春秋氏の時代に積極的に植えられたのではと思います。
松は常緑樹で長寿であることから人にとってあやかりたい存在とされます。しかし、本当にそれだけでしょうか。民俗学者の吉野裕子氏によれば松の旁の「公」の旧字は「㒶」のため、八白の木として捉えられたといいます。
八白は古代中国の思想である「九星」のひとつで、東北を意味する言葉です。上の画像は神社やお寺の方位除けなどに用いられる九星気学の図。八白土星は丑寅(東北)に位置していますよね。
当社は鬼門除けとして東北に遷座されたのですから、そこに松を植え神霊化してお祀りしたと考え方もできるでしょう。松もまた神に並ぶ大切な存在だったと思います。
社殿
入母屋造の拝殿は柱の色が明るく新しい印象。昭和46年に建立したので社殿としてはまだまだこれからといったところでしょう。
本殿は流造。覆屋のせいで千木や鰹木までは判断できず。蟇股は梅がいくつかあるようです。脇障子にある彫物は外からでは見えませんでした。
彫刻はシンプルな獅子や龍。非常に保存状態がいいのか新品同然の美しさですね!
境内社
拝殿から向かって左手には祖霊社が建立されていました。墓碑には「英霊」とあり、大正以降の没年が並んでいました。見たところ全員男性なので戦没者なのでしょう。
参道の左手にあるのは山倉神社です。ご祭神は高皇産霊神、建速須佐之男神、大物主神です。「大六天」は天神七代の六代目である淤母陀琉神や阿夜訶志古泥神とされることがありますが、ここは違うようですね。
山倉神社は香取市(千葉県)が本営のようで古くは大六天社と称し疫病除けを祈願されていました。いつから境内社としてあるのかは不明。分かっているのは昭和48年(1973年)に改築したことくらいです。
旧6月28日に例祭が執り行われ、江戸後期から昭和初期まで東、西、南の三当屋の山車が出ていたそう。河和田の大六天として近隣には知られていたといいます。
興味深いのはかつての例祭が夏の土用にあり、祇園祭の時期と重なること。祇園といえば牛頭天王のお祭りであり、牛頭天王は須佐之男命と習合した神です。須佐之男命は大六天の祭神に数えられるのですから、祇園社と大六天社には通じるものを感じます。三柱の祭神と祭りの東西南の山車はそれぞれ関係しているのでしょう。
また、吉田神社の例祭は11月23日の新嘗祭と同日となっています(元は旧9月29日)。やはり東、西、南から当屋が奉仕するそうで方位と祭りは密接な関係があるようです。
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御朱印
河和田吉田神社の御朱印です。本務の飯綱神社でいただけます。飯綱神社に宮司は常駐していませんが、毎月1日と15日の早い時間(9時〜10時頃)であればいただけます。
この日は7月1日だったので夏越の祓えのための茅の輪が撤収前でした。茅の輪は12月と6月の中旬から末にかけて設置されます。この時期は暦の上での鬼門と裏鬼門(人門)にあたり季節の大きな転機です。
茅の輪を見かけたら新たな季節に向けて心身ともに生まれ変わる気持ちでくぐるといいですよ!
・ご祭神は日本武尊、かつては八幡宮だった
・松には八白の木として変化を司る神霊とする捉え方がある
・御朱印は本務の飯綱神社でいただける
茨城県神社誌|茨城県神社庁
茨城県の地名|編:平凡社
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。