wata
江戸時代、我らが水戸黄門は強烈な寺社改革をしたのですが、あまり知られていないでしょうか?多くのお寺が失われたことは事実なんですよね。残ったお寺との違いはなんでしょうか。気になりますよね。
この記事では高萩市の能仁寺をご紹介します。光圀公がどうして能仁寺を残したのかわかりますよ〜!
この記事でわかること
- お寺の由緒・沿革
- 水戸藩の寺社整理の関係
- 御朱印のいただき方
由緒
以下の由緒は主に『天台宗茨城教育寺史』を参考としました。
役小角によって創建。
慈覚大師(円仁)によって再興
同市内の大髙寺と共に高萩地方を代表する寺院となり、その後に澄円が再興
亮珍の代に龍子城主・手綱太郎の祈願所となる
山城国(京都)の青蓮院末だったが、常州河内郡黒子(現在の筑西市)の千妙寺末となった。
水戸藩の寺社改革により室町から戦国時代にかけて増えた末寺と門徒を失う。
徳川光圀の命によってご本尊の修繕や堂宇の改修がされる。
*『茨城県の地名』による
*『天台宗茨城教育寺史』による
*境内石碑による
*境内石碑による
ご本尊は釈迦如来仏と十一面観音像(常陸三十三観音)です。光圀公はご本尊の他、普賢菩薩と文殊菩薩も修繕しましたが、その後消失したようです。文化3年(1806年)の火災のときでしょうか。
県内の寺院巡りはかなりしているのですが、天台宗で釈迦如来をご本尊とするのは珍しいと思います。記憶にあるのは大津(北茨城)の長松寺くらい。同寺も由緒に慈覚大師が関わっているのが面白いところです。
創建に役小角とありますので、もとは修験道だったか、由緒が書かれた時点で修験と深く関係していたのでしょう。平安時代くらいまでの由緒については慎重に読み取る必要があるかと思います。
水戸藩の開基帳(寛文3年)によれば、木皿村常楽寺・石岡村西光寺・上君田村台山寺など11の末寺を従えていました。本寺と末寺はお寺の上下関係のようなもの。前期水戸藩の寺社改革は本末を見直すことがよくありました。
寺社改革の結果、現在の高萩市にあった天台寺院は5ヶ寺が廃寺、そして当寺が唯一となりました。歴史的にも非常に重要な寺院であることは間違いありません。
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平成17年(2005年) クスノキ(市指定名木)
常陸(水戸)三十三観音霊の十八番札所です。御詠歌は「ひまの駒 歩みも早し上手綱 かけて御法の道や行くらん」
アクセス
能仁寺は高萩市の上手綱にある天台宗の寺院です。茨城のかなり北の方にありますが、最寄りの高萩ICを下りて5分ほどなのでアクセスはよし。
写真を道なりに進むと庫裏の手前にたどり着きます。数台であれば駐車可能です。
名称 | 妙林山 尊法院 能仁寺(天台宗) |
住所 | 茨城県高萩市上手綱572 |
駐車場 | あり |
Webサイト | なし |
参道の石仏とクスノキ
能仁寺本堂は通りからやや坂道を上った先にあります。石段の手前にある小さな建物には2体の石仏が安置されていました。子安観音と如意輪観音かと思います。子宝・子育てを祈願していたのでしょう。
この参道にはいくつか興味深い石仏が並んでいます。
たとえば上は草書体で書かれた「馬力神」の石碑。旧水戸藩領でよく目にします。従来であれば馬頭観音であることを後期水戸藩の廃仏思想により神道的に置き換えられたのではないでしょうか。
石段を登るとお寺のシンボルといえるクスノキです。はじめてお参りしたときからすごく力強さを感じましたね。高萩市が指定する名古木で樹齢は170年ほど。高さは20m、樹形は3.4mにもなります。
植えられたのは幕末の頃でしょうか。天狗党が暴れる動乱の時代にどんな思いで植えられたのか。感慨深いものがあります。
本堂
本堂はクスノキのすぐ先にあります。堂内の中央には釈迦如来像、向かって右側に十一面観音像があります。かつて観音像は本堂とは別の観音堂に安置されていましたが、現在は一緒です。
釈迦如来は比較的新しく感じました。近年修繕か新しくしたかと思います。
もうひとつの御本尊・十一面観音像は黒ずんでおり、永く護摩焚きされていた印象です。両手の平を前にした独特の形でした。どのような意味を持っているのか尋ねておけばよかった。
御朱印
能仁寺の御朱印です。本堂の左手にある庫裏からお声掛けください。御朱印をお願いしている間、本堂でご本尊および十一面観音にお参りさせていただきました。
ご親切に応対くださり大変感謝しております!
今回、高萩市の寺社のことを調べていたら、水戸藩の寺社改革について多くのことがわかりました。
水戸藩は徳川光圀の時代に領内の寺社改革を行いました。簡単に説明するとすべての寺社の由緒と実態をチェックして、水戸藩にとってふさわしくない寺社を”整理”しました。
整理とは”お寺を潰す”ことや”僧侶を辞めさせる”ことなどです。その数2088の寺院のうち1098に及んだというから凄まじい。
寛文3年(1663年)に開基帳の作成がはじまり同6年に処分をお達ししました。3年ほどで完了させたのはスゴイですよね。しかも自ら現地に足を運んでいるところもあるんです。
明治の廃仏毀釈のような過激なことがあったかと想像してしまいますが、これが意外と(?)ちゃんとした政策だったんです。すみません、失礼ですよね。
今回は高萩地方のことしか調べませんでしたが、改革はどの地域にも共通していたかと思いますので参考にしてください。
なぜ改革が必要だったのか
そもそもなぜ寺院を”整理”したのでしょうか。お坊さんかわいそう。
たしかにいきなり失職したらかわいそうです。でも、ちゃんと理由はありますよ。寛文6年の水戸藩のお達しを読む取ると次のようなことです。
- 本来の役目である葬祭をしない寺院は潰す
- 檀家0の寺は無収入で存続できないはずだから潰す
要するにお寺なのにお寺の仕事していないなら潰すということです。上記の2つに共通しているのは、僧侶が祈祷によって生計を立てていたと考えられることです。もちろん苦しい生活だったと思います。
この問題を例えるなら「生活の困窮した占い師が相談者に適切なアドバイスができるか」です。何回も相談されたほうが収入を増やせるので適切なアドバイスをできるか難しい。。
光圀公はそれが誰のためにもならないので「法外の営みで民を迷わす」として潰していきました。ちなみに潰された寺院の檀家や寺領は残された寺院に移されています。
続いて改革で高萩地方の寺院数がどれくらい変化したかチェックしてみましょう。以下の表は改革の区切りとなる元禄13年(1700年)までの37年間の推移です。
対象寺院が70あって34まで減っています。約半数になっていますが、山伏が減っていないことに注目です。山伏は宗教寺院ではないので数字=人数です。
また、山伏は神仏習合の信仰(修験道)ですから、改革は単純に神仏分離のためでなかったとわかります。もちろん山伏や修験道の排除も目的ではありませんでした。
おそらく寺社改革は本質的に財政改革です。水戸藩は先代藩主の頼房によって多額の負債を抱えていたので非生産的な領民を正す必要がありました。でも、信仰の自由は保証されていたので多くの理解は得られたことでしょう。
能仁寺は末寺と門徒を失ったものの潰されませんでした。それどころか前述のように保護されています。光圀公から高い評価を受けた証です。かつて家康の時代に20石もの朱印地を授かったほどですからね。
いまそのような面影はありませんが、素晴らしい由緒を振り返りながら静かにお参りしてみてはいかがでしょうか。
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・もと修験道の寺。いつしか天台宗となった
・水戸藩の寺社整理にあったが由緒や信仰が認められて保護された
・御朱印は本堂左手の庫裏でいただける
天台宗茨城教育寺史|天台宗茨城教区寺史刊行委員会
茨城の寺(一)|著:今瀬文也
高萩市史(上)|高萩市史編さん委員会
高萩市史(下)|高萩市史編さん委員会
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。
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