wata
県内の民話は色々と読んできたつもりなんですが、八千代町のお話はまったく知らないのです。なので、さいきん町の公式YouTubeチャンネルで町内の民話を紹介しているのを知って驚きました。ここにあったか!と。
そんなわけで今回は八千代の「和歌姫」のお話とそれに関係する和歌神社をご紹介します。これを知っている方はかなり珍しいと思いますので、ぜひ八千代通になるためにもご一読ください!
この記事でわかること
- 和歌神社の由緒と御祭神
- 「和歌」の由来
- 和歌姫の伝説について
由緒
香取神社、熊野神社、八坂神社、諏訪神社、寿者神社、大平神社、天神社、稲荷神社
*『茨城県神社誌』によれば、明治40年に村内の無格社である香取神社、熊野神社、神明社、寿老神社、八坂神社、諏訪神社を合併。同じ44年に稲荷神社を合併。愛宕神社と称した。
現社号に改称。
ご祭神は軻遇突智命、倉稲魂命、誉田別命の三柱、それに以下を配祀しています。配祀は合祀された神社の御祭神と思われますので社号を併記しました。このうち天神社は境内社としてお祀りされています。
- 経津主命(香取神社)
- 伊邪那美命(熊野神社)
- 素盞嗚尊(八坂神社)
- 塩槌翁命(寿者神社)
- 武須佐男命(熊野?大平?)
- 菅原道真(天神社)
- 建御名方命(諏訪神社)
当社の信仰の中心はおそらく愛宕神社なのでしょう。それに周辺の神社を次々と合祀したと思われます。愛宕神社から和歌神社に改称された理由については境内で次のように説明されています。
その昔高貴な人と思われる久米村寿の娘和歌姫なる者の古墳を十王堂の裏より発掘したため和歌姫の和歌をとり大正二年和歌神社と改し現在に至る。
神社に隣接する古墳が「和歌姫」のものとされ、それが社号にも用いられるようになったということですね。当地は「若」といい、「和歌」や「和賀」とも書きました。驚くことに『続日本紀』まで遡ると考えられるのだとか。
「続日本紀」天平一一年(七三九)二月二八日条に「石上朝臣乙麻呂坐姧久米連若売、配流土左国、若売配下総国焉」と若売の配流地は当村で、地名はそこから起こったともいわれ(結城郡郷土大観)、集落中央の安楽院境内、小字香取東には古墳があり、若売の墓と言伝えている。
茨城県の地名 P664
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アクセス
和歌神社の駐車場でないかもしれませんが、隣接する敷地に駐車可能です。「若農村集落センター」の看板を目印に入っていて下さい。
名称 | 和歌神社 |
住所 | 茨城県八千代町若1012 |
駐車場 | あり |
Webサイト | なし |
鳥居
こちらが境内入口となる鳥居です。鮮やかな朱色をして足が六本。いわゆる両部鳥居です。境内は決して広くないのですが、この先にも明神式鳥居があり、かつての境内はもっと広大だったことをうかがわせます。
当社の境内は東日本大震災で大きな被害を受けたため、若地区の浄財を集めて復興しました。鳥居や狛犬などは震災のあった2011年のうちに建て直されたようです。
こちらがその明神式鳥居。明神式は一番上の石柱が上のほうに湾曲しているのが特徴です。
参道の石灯籠には天保4年に寄進されたと彫られていました。歴史ある神社である事は間違いありません。
当社の手水舎に清めの水はありませんでしたが、鉢の奥に不動明王があるのでご覧になってください。密教では本尊格とされますから、真言宗や天台宗系の信仰が近くにあったと思われます。
社殿
拝殿は入母屋造りでなかなか立派。正面の水引虹梁にはキツネが二匹。追われるキツネと追うキツネが見えます。当社はかつて稲荷神社を合祀しましたので、もしかしたらこの彫物はその名残なのかも。
『茨城県神社誌』によれば、地元の方々は当社を「稲荷さま」とか「愛宕稲荷八幡神社」と呼ぶのだとか。稲荷は愛宕に合併した形ですが、どうも印象が強いのは稲荷のほうみたいですね。
和歌神社の本殿は巨大な覆屋に囲まれておりますので、その姿を見る事はできません。しかしこれほど厳重ですから、おそらく一般的な社殿より立派なのではないかと思います。ぜひ見てみたいものですね。
覆屋の千木は女千木でした。本殿よりはずっと新しい建物かと思いますが、建立当時は和歌神社に改称していたのではないでしょうか。もしかしたらそれから女神を意識してのことかもしれませんね。
境内社
最も大きい境内社と思われる建物内で山車を発見。山車といえばなんといっても八坂神社。明治時代に当社に合祀されたことで祭りも引き継がれたのでしょう。
その建物の隣には、いくつもの石祠が並べられておりました。ほとんどは社号が確認できないものでしたが、そのうちひとつはじつに興味深いものです。
おそらく「じゅろう」と読むのでしょう。境内の立て札にはありませんでしたが、『茨城県神社誌』によると塩土翁命を祭神としています。神話では導きの神として活躍します。
しかし、古くからそうであったかは疑問です。なぜなら、ふつうはこの名前から「寿老人」を連想するはず。寿老人は七福神のひとりで福禄寿とともに星を神格化した道教由来の神です。
七福神の中で正直マイナーな寿老人に対する信仰は独特な教義を持つ修験道との関係が気になるところ。そもそも当社の愛宕信仰も修験道(山岳信仰)のひとつですからね。
さて、ここで境内に隣接する古墳についてもご紹介しておきましょう。境内の立て札によると、十王堂の裏に古墳ありとのことですから、駐車場にある寄棟造の建物が十王堂にあたるのでしょう。
大棟に「卍」を発見しました。仏教関係の建物であることは間違いありません。その前にある2つの小さな堂は扁額から薬師堂と大師堂であることがわかっています。
大師堂には「安楽院」と記載されているので、十王堂が安楽院の本堂か伽藍の一部なのは確実でしょう。これで和歌神社にある不動明王が安楽院と関係する可能性が高くなりました。安楽院は和歌神社の別当?
その裏にあるのが古墳。たしかに土がこんもりとしております。こちらになかなか興味深い伝説があるのです。八千代町が町のYouTubeチャンネルで紹介しているのが以下です。
高貴な身分の女性が当地にいたと言うお話はなかなか夢があって面白いと思います。お話の下地は正史『続日本紀』ですから、少なからず事実を含んでいるのでしょう。
貴重なお話を動画で分かりやすく伝えてもらえるのはありがたいことです。レアなのでぜひプレイリストもチェックしてみてくださいね。
・和歌神社はもと愛宕神社。和歌姫の古墳が見つかって改称された
・「和歌」は地名の「若」から転化したと思われる。歌の和歌とは直接関係がない
・社殿に隣接する古墳は和歌姫のものといわれるが、民話だと和歌姫が死亡する前に造営されたとも伝わる
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。