wata
- 尾崎前山遺跡の特徴
- 製鉄炉跡と平将門の関係
さいきん平将門の本を読んで猛烈に史跡巡りをしたくなりました。
それで改めて史跡を探してみたら驚くほど見つかるんですよねぇ。。少しずつ紹介していきますので、興味を持ったらぜひ散策の参考にしてください。
今回は八千代町の辺境に位置する尾崎前山遺跡をご紹介します。製鉄炉跡が見つかったのですが、じつは将門公と関係しているかもしれないのです!
尾崎前山遺跡とは
まずは遺跡についてご紹介します。
尾崎前山遺跡は、昭和53年(1978)から55年にかけて発掘調査され、斜面から3基の製鉄炉跡や木炭・粘土などの材料置場、作業場などの施設が発見された。
また台地上からは竪穴住居跡や鍛冶工房跡も発見された。
当初、製鉄炉は住居跡や工房跡と同時期の平安時代(9世紀頃)に操業された竪型の炉と考えられていたが、その後、調査事例の増加に伴って研究が進展し、尾崎前山遺跡の製鉄炉跡は8世紀にさかのぼる箱型の炉であった可能性が指摘されている。
尾崎前山遺跡製鉄炉跡/八千代町教育委員会
この遺跡の大きなポイントは平安時代に使われたとされる製鉄炉跡が発見されたこと。その頃、当地は豊田郡と呼ばれており、平将門(?-940年)の活動基盤でした。つまり、将門公はこの製鉄炉を使って装備を整えていた可能性があるんです。ロマンあふれではありませんかっ!
調査では8〜9世紀(701〜900年)の操業とありますので将門公の時代と合わないのでは、という意見もあります。ただし、それはあくまで造られたり、使われはじめた年代のこと。いつまで使われたかはハッキリしていません。
製鉄炉は将門公の父である鎮守府将軍の良持(良将ともいわれる)も利用していたと考えられ、良持の急逝により基盤を引き継いだ将門公も利用したのではないかと思います。
この辺りは福田豊彦さんの『平将門の乱』、乃至政彦さんの『平将門と天慶の乱』を参考にしています。将門公の背景に興味のある方はぜひ読んでみてくださいね!
尾崎前山遺跡は平安時代のほか旧石器時代、縄文時代、弥生時代も含めた複合遺跡です。
平将門について学ぶならこちら
アクセス
圏央道の坂東ICを下りて約10分。行くなら車になるでしょう。
遺跡の場所は上図のとおりですが、駐車場は150mほど離れた以下の場所です。
正直マニアックな場所なので駐車場があることに驚きました。散策も数分で終わってしまうと思います。。まぁ楽しみましょう!
名称 | 尾崎前山遺跡 |
---|---|
住所 | 茨城県八千代町尾崎 |
駐車場 | あり |
現地を散策してみた
駐車場に車を停めていざ散策。奥に見える立て看板と柵の張られた場所が遺跡です。
こちらが入口。斜面になっていますよね。台地下の斜面から水田にかけて、多量の鉄滓(鉄を製錬する際に出る不純物)が見つかったそう。製鉄の証拠ですね。
トコトコと登っていくと復元された製鉄炉がありました。うーん、シンプル。本当にこんなんで造れたの。。??古代とはいえ信じがたいですなぁ。
前述の調査により製鉄炉は3号炉まで見つかりました。また、台地に竪穴住居と鍛冶工房跡が確認されています。当時周辺にはどれくらいの人が生活していたのでしょうね。
炉の数を考えると職人は決して多くないと思いますが、材料を発掘したり運搬する人たちも必要ですから周辺には大勢が住んでいたはず。
それにここは天然の牧(馬を飼う場所)でもあったのだとか。将門公の父は暴徒の鎮圧のために軍馬を用いており、その馬は自身の領地から調達していました。台地は天然の柵となって放牧した馬の行動を制限していたことでしょう。
ところで、この製鉄炉の北に位置する佛性寺(栗山観音)は将門の代に敵対していた平良兼に焼き討ちされています。栗栖院常羽御厩(軍馬の育成施設)があったためといわれますから、この場所も当時はかなり危険だったに違いありません。
こちらの遺跡に将門公の関係を示すものはひとつもありません。。しかし、将門公について触れないのは少しもったいない気がしますね。周辺に似たような遺跡があれば分かりやすくなるので見る目も変わるでしょうか。
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まとめ
この記事のまとめ
- 尾崎前山遺跡は旧石器時代から続く複合遺跡
- 平安時代は当地で製鉄がされていた
- 平将門も製鉄炉を利用していたかもしれない
この記事で紹介した本はこちら
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。