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茨城県は浄土真宗の開祖にあたる親鸞布教の地です。稲田(現笠間市)の草庵を拠点としていましたが、そこに辿り着く前には下妻の地に滞在していたといわれます。
今回ご紹介するのは光明寺です。親鸞が活動していたという小島草庵に近く、直弟子(明空)が創建したといわれています。木々の美しい境内には親鸞御手植えの菩提樹もありますよ!
光明寺は親鸞の直弟子である明空によって創建されました。寺伝をもとにしたと思われる『下妻市史』では次のように紹介されています。
明空と光明寺
明空は俗姓を三浦荒次郎義忠(或書三浦胤村、同寺鐘銘に和田義次)といい、同族和田義盛と共に執権北条義時を攻めて敗れ、東北へ落ちのびる途中この地を通り、新地の牛頭天王社(いま五所神社、もとは常陽銀行辺にあった)に仮宿した。そのとき多勢の者が親鸞の法談を聞きに行くので、義忠も同道して法談を聞き、歓喜して親鸞の弟子となり、法名を明空と与えられて光明寺の開基となった。
下妻市史 P96
同書には光明寺の本堂に関する記述もあります。話は三皇院(小島草庵)で親鸞が法話をしていた頃です。
親鸞はその後も熱心に布教を続けたので、この地方の大衆は帰依する者が多く、とくに小島の領主小島丹後入道清武、同郡司武弘父子は帰依のあまり、館を寄進した。貞応二年(一二二三)ここに寺を建てて、西木山(一書、亜木山)光明寺と名づけ、弟子明空に与えた。
下妻市史 P96
細かい話ですが、光明寺の創建は承久2年(1220年)といわれるので、明空が弟子になったことと本堂の建立の時期には若干の開きがあったということでしょうか。
明空は「直弟子関東六老僧」の一人とされ、親鸞の関東における二番弟子とされています。親鸞が下妻の地に滞在していたことは恵信尼の手紙から明らかなので非常に重要な寺伝だと思います。
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寺宝「門侶交名牒」によれば、六老僧とは明光、明空、了海、源海、了源、源誓です。
『常総誌略』によると、三月寺(小島草庵)は元亀2年(1571年)の小田原北条氏の攻撃により当寺の境内に移りました。
アクセス
名称 | 西木山 高月院 光明寺 |
住所 | 茨城県下妻市乙350-1 |
駐車場 | あり |
Webサイト | なし |
山門と親鸞御手植えの菩提樹
境内東側の広い駐車場に停めて参拝。まさか山門のすぐ向かいにも駐車できるとは。お寺の敷地はだいぶ広いようです。驚きました。
境内は塀で囲われており、山門には「真宗大谷派光明寺」「大谷学場下妻道場」。物理的に仕切られていると特別な印象を強く感じます。もしかして真宗の中でも格式高かったりするのでしょうか。
山門の右手前にある菩提樹は推定樹齢800年、親鸞聖人のお手植えとされています。稲田に去る際の記念として植樹したのだとか。
菩提樹の隣にそびえるのは長塚節の歌碑です。境内の立て札によれば、たびたび当寺に足を運んでいたそう。「うつそみの人のためにと菩提樹をここに植ゑけむ人の尊さ」
仏教の祖であるブッダは菩提樹の木元で座禅を組んで悟りを開いたといわれます。親鸞は菩提樹が人々を救済すると信じて植えたのかもしれませんね。
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明空御手植の柊
山門の先、すぐ右手には「明空御手植の柊 」があるはずなのですが。。寿命を迎えてしまったのでしょうか。樹齢800年以上とされる巨木の姿はそこにはありませんでした。
柊は明空を好んだため、境内に数多く植えられたそう。光明寺は「柊道場」と呼ばれていたのだとか。無くなってしまったのは残念ですが、柊としては充分に長生きしたので天寿を全うしたのではと思います。
私たちにとって柊といえば、節分の際にイワシの頭と一緒に玄関に飾るものでしょうか。魔除けであり迎春のための縁起物ですね。
傍には明空の歌碑が建てられています。「われもまた心に造る罪科を名にあらわして植うる一本」。
本堂と寺宝の「聖徳太子立像」
巨大な本堂です。写真だとサイズ感が分かりにくいと思いますが、向拝の柱が四本あるのはそれだけ屋根が広くて重いということです。
右側に小さな看板があって、文化財である「聖徳太子立像」を紹介していました。さすがに参拝者が簡単に見ることはできません。でも茨城の聖徳太子信仰を語るうえで重要なのでいつかは実物を見てみたいですね。
像は胸の前で笏を構えているので「摂政太子立像」とも呼ばれます。一方で頭には「みずら」のあった跡が見えるのが不思議なところ。「みずら」は幼年期ですから摂政の時代(22歳以降)にはなかったろうと。
浄土真宗では聖徳太子の信仰が盛んです。親鸞自身が崇敬していたからと言われるのですが、面白いことに常陸国には親鸞の時代(鎌倉期中期頃まで)に造られた聖徳太子像や画が存在しません。
仏像や画の特徴を頼りにした美術史的には、太子信仰を広めたのは親鸞ではなく真言律宗だったという説があります。そこで小田(つくば市)のあたりを拠点としたという忍性が注目されるわけですね。
本堂手前の大木は銀杏です。黄葉した美しい姿は『茨城大銀杏番付』でご覧ください。
開基堂
本堂の向かって右手に建てられているのが開基堂です。中身は見えませんが、名前からすると開基の明空をお祀りしているかと思います。上は『茨城の寺(一)』にあった明空の木造です。りりしいお顔をされています。
寺伝によれば、明空は駿河守であった三浦義村の九男。武士であった頃に和田合戦で同族の和田方に属して北条氏と争い敗れたといわれています。
ただ、歴史的には三浦氏は和田氏と通じていたものの、合戦では北条氏についたと記憶しているのですが。。このあたりは寺伝の立場もあるのでしょうか。
寺宝の黒蓮華
親鸞伝説は日本のあちこちにあるのですが、親鸞が長く滞在した茨城県はとりわけ多く残っています。その中でも興味深いのが当寺に今でも残るという「黒蓮華」の伝説です。
「伝花見ヶ丘大蛇済度」より
人間の持つ嫉妬心をテーマに展開する大蛇済度。
室の八島明神の宮司の子弥生の命が差し出されることになり困った宮司が夢告により親鸞聖人の教えを請うことになった。そこで聖人は教えをすぐさま受け取った健気な弥生を喜びつつも暴れる大蛇に十字名号を口に含ませると大蛇は今畜生道を免れたと涙ながらに紫雲に乗って去ったという。そこから降り下りた蓮華の花弁を小島に帰庵した聖人が十字名号とともに明空房に譲ったと伝えられている。人の手のひらに乗せると静かに丸まるように動き出す。親鸞の足跡を訪ねる遠近の人々が、住職の本意に反してご要望が多い。ある時北海道から母を背負って同行の手のひらであまりに動くので絶句。「常憲院殿供御賢黒蓮華右之黒蓮華」と包紙に書かれている。「常憲院殿」とは第五代将軍徳川綱吉の法名である。徳川綱吉との関連は光明寺が御朱印五石を将軍から与えられていたことにあるのであろう。
御朱印状が現存しており、江戸期における光明寺の歴史を研究する上で貴重な資料とされる
花見岡の大蛇済度(黒蓮華)【光明寺】
「室の八島」は下野国(いまの栃木県)都賀郡にある八島明神を指すとされ、歌枕にもなっています。そうした場所が伝説に含まれているのは面白いですね。
現存する蓮華(非公開)については『真宗大谷派東京教区』でご覧ください。他にもたくさんの伝説が掲載されていますよ!
親鸞が大蛇を救済した伝説は県内の八郷町大増(石岡市)にもありますし、龍であれば長州(坂東市)の阿弥陀寺にも伝えられています。どうぞ龍蛇は罪深い存在と考えられていたのかもしれませんね。
下妻市史|下妻市編さん委員会
親鸞聖人史跡伝説伝承|親鸞聖人伝説伝承調査委員会
茨城の寺(一)|今瀬文也
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。
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