wata
この記事では水戸市の有賀神社についてシェアします。市街から少し離れておりまして少々知名度が低いですが、御朱印もいただけますのでぜひ散策を楽しんでみて下さい♪

由緒
那賀国造・建借馬命により有賀町藤内の地に鎮祭。藤内神社と称する。
同地の塚原城陥落の際に兵火により焼失
氏子を挙げて現在地に社殿を造営。鹿島明神と改められた
青木神社を合併して村社列格
有賀神社と改める
疱瘡神社を合併


ご祭神は武甕槌命、経津主命。そして月読命と少彦名命を配祀しています。
月読命は鎮座地の周辺で疱瘡神社のご祭神とされています。配祀は明治42年からでしょう。少彦名命は疱瘡神社に合祀されていたといわれます。もしくは明治6年に合併した青木神社の祭神かもしれませんね。
当社の大きな特徴は例祭とそれに伴うお磯下りです。境内の案内から引用します。
例祭並びにお磯下り(磯渡御) 十一月十一日 十二日
お磯下り(磯渡御)は、平安時代より始まったと伝えられ、宮司が大御鉾を捧持して馬車に乗り、大洗磯前神社に渡御を行う。これは二柱の神が出雲国の五十狭の小汀に天下り大巳貴命に神勅を告げ給う国譲りの神話に基づく特殊神事である。幼児の虫切りに霊験ありと言われ、愛児の健やかな成長を願い祈願に大勢の人々が参集する。水戸市指定無形民俗文化財。
お祭りで別の神社に行ってしまうなんて。。なんともレアな祭事です。しかも二社は30kmくらい離れています。いまは車で移動するそうですが、かつて歩いていました。マラソンの比じゃないくらいしんどかったことでしょう。
祭りの日にちは固定なので平日開催もしばしば。見れたら幸運だと思います。お写真は大洗町長のブログ(有賀祭:国井ゆたかオフィシャルブログ)からご覧ください。
なお、社伝によるとこの祭事は大同2年(807年)に始まったとあります。でも、当社の創建って。。祭事が先にあってそのために社殿ができたという説もあります。ミステリーですね。
ミステリーついでに謎をもうひとつ。上の年表で当社を創建したという那賀国造・建借馬命。境内の案内などになく茨城県神社誌に載っているのですが、タケカシマの名は常陸国風土記にもあるのです。
それによると命は崇神天皇(紀元前148-30年)の時代に行方郡で賊退治を行い、那賀国造の始祖となりました。また『神武記』では神八井耳命(神武天皇の皇子)の子孫とされています。そんな人物が由緒にいて驚きですが、創建の時代には生きていないような。。謎は深まるばかり。
wata
常陸国風土記を読むならこちら
お磯下りが行われた時代は確認できるもので天正2年(1547年)9月25日が最古です。(参考:水戸市公式サイト)
アクセス
常磐道の水戸インターを下りて約6分(3.6km)。アクセスはよいかと思います。

駐車場は一の鳥居の向かって左側。停められるのは2〜3台ですが、祭事でなければ混雑しませんので大丈夫でしょう。
名称 | 有賀神社 |
住所 | 茨城県水戸市有賀町1032 |
駐車場 | あり(無料) |
Webサイト | なし |
鳥居

写真は一の鳥居です。左手に小さな空きスペースがあって車を停められます。
鳥居の先に『平成の内原十景 有賀神社のしだれ桜』の石柱が立てられています。ただ、桜の季節でなければどれがそれなのか分からないと思います。
見頃の写真は『茨城県の桜』でご覧ください。見たところ個人宅の敷地。花見のための立ち入りは禁止だそうです。
参道・手水舎

なんの変哲もない素朴な境内。でも、平和な昨日と同じ今日を迎えられるのは幸せなこと。これがあるべき姿なのかもしれませんね。
手水舎の手前。左手の方に社務所があります。ふだんは不在ですが、お電話対応はしてくださると思います。御朱印をご所望ならどうぞ。
社務所には現代語で書かれた由緒が張り出されています。以前は例祭のチラシ兼パンフレットが置かれていましたので、欲しい方は補充されたタイミングで参拝できるといいですね。
社殿

入母屋造の拝殿。くたびれていながらもしめ縄は明るく人の手を感じます。

だいぶ薄れていますが、たいへん立派な扁額が掲げられています。縁にはウジャウジャと龍が見えます。


毎回プッと笑ってしまうのが左右の狛犬。瞳がなにかを訴えているような。。正直変顔ですよね。でも、愛嬌があってよき。

本殿は一般的な流造。よく見ると屋根には菊花紋が三つ。神紋の巴とは違うんですね。
ひとつだけ残った千木は女千木です。主祭神が武甕槌命だと考えるとかなり珍しい。この社殿は近代に立てられたものですが、昔からこうなのでしょうか。

本殿正面には丸彫の龍。その下に見える梁にはボタンを浮き出させているのでしょうか。これはだいぶ手間がかかりそうです。一般の参拝者にほとんど見えないのが惜しい。

本殿の側面には立派な懸魚が見えます。おそらく鳳凰でしょう。懸魚の左右には降り懸魚と呼ばれる彫刻が2つ。両方とも松のようですね。反対側の降りは鳥が彫られているようでした。


社殿の裏側から脇障子には瑞鳥として知られる山鵲らしき鳥が彫られていました。それぞれ尾の長さが違っているのは雌雄をあらわしているのでしょうか。まったく見事なものです。
わたしは藤内神社であった頃はいまとは大きく違った信仰があったのではと思います。創建した貞観元年(859年)といえば、御霊信仰が広まり始めた頃。数年後には京都の神泉苑で初めての御霊会が開かれます。
この世に恨みを持つ怨霊が災厄をもたらすのではないか、と考えられていた時代で穢を祓ったり禊をする水辺は神聖な場所でした。なので、その頃からお磯下りがあったとするとその後の鹿島社とは違う性格を持っていたのではと思うわけです。
ちなみに文徳天皇実録によると大洗磯前神社の創建は斉衡3年(856年)。ご祭神は海から流れ着いた大巳貴命と少彦名命です。二社は創建の年代が近いことからもなにか深い関係があるのでしょう。
そのためかこんな説も。。
伝えによれば、有賀神社の祭神は大洗磯前神社の側室の娘で、気立てがよく1年に1度親孝行のためにおみやげをたんと持って大洗に里帰りしてくるといわれています。
有賀神社/まいぷれ
これだと本殿が女千木である理由を説明できますね。ところで、この説は一体どこから耳にしたのでしょうか。それは。。ふふふ。
境内社:三十二神

拝殿を正面に見て左側に上の写真のように境内社がまとめられています。左から順に八坂、天満、稲荷と続き、一番右にあるのは「三十二神(改行)番順社」とあります。これが分からない。
『茨城県神社誌』によれば、境内社として「三十二神」があり、その御祭神は「天三十二神」なのだとか。それでも分からない。

いわゆる三十番神かと思いましたが、どうもそれとは違うようです。こちらについては興味があって調べておりますので、もしなにかご存知の方がいらっしゃれば、Xなどでご連絡をいただけたらと思います。
御朱印

有賀神社の御朱印です。最後にいただいたのはお正月ですが、ふだんからいただけます。
社務所(029-259-7416)にお電話してから伺って下さい。社務所に不在でもお電話から対応してくださる場合があります。
ちなみに当社の場合、元旦に大きな行事をすることはありません。ご祭神は物忌のために12月31日(旧暦12月3日)から眠りにつき、これを「御眠り」といい古例となっています。
目覚めるのは1月7日で、その日に「御扉開祭」が催されてめでたく新年を迎えるのです。古例ではいっさいの歌舞曲は停止され、参拝客もまばらになるとか。
昔は季節の節目や土地の境界には「不浄」があるとして避ける考えがあったんですよね。そのときの名残かなぁと思っています。
・創建は貞観元年(859年)、ご祭神は武甕槌命と経津主命
・例祭と一緒に行われるお磯下りは大洗磯前神社まで渡御をする
・御朱印は社務所不在でも電話をすれば対応してくれる場合がある
茨城県神社誌|茨城県神社庁
茨城県の地名|編:平凡社
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。