黒坂命古墳の謎に迫った色川三中|美浦村

記事内に広告を含みます

wata

ども!いばらき観光マイスターのwata(@wata_ibamemo)です!

わたしは『茨城』という県名好きです。

地名は色々な理由で付けられますが『茨城』は単なる地形や位置を示すものより素敵だと思います。茨には美しさもあれば、少し怖いイメージもあります。ギャップがあるのでミステリアスな感じもしますね!

そんな茨城の由来は常陸国風土記ひたちのくに ふどきにあります。このあと紹介をしますが、黒坂命くろさかのみことという人物が関係します。風土記だけに登場する謎の人物なのですが。。なんとそのお墓(とされるもの)が美浦村にあります!今回は黒坂命とそのお墓(古墳)をご紹介します。

黒坂命とは

黒坂命は常陸国風土記の茨城うばらきこおり信太しだの郡に登場。物語としては先に茨城の郡があります。内容をざっくりとご紹介します。

古老の話では、その昔、このあたりには朝廷の命に従わない土着の民がいました。その者たちは、野の佐伯さえきとか山の佐伯さえきと呼ばれていて、山や野に穴をほって住んでいました。人が来ると隠れて、いなくなると外に出て遊ぶ。そんな生活をしながら、ときに人のものを盗んだり乱暴なことをしました。佐伯はずる賢くて人の話を聞かなかったので、土地の人からとても嫌われていました。

そこで、大臣おおのとみの一族である黒坂命が朝廷から派遣されました。黒坂命は、佐伯が外に出ている隙に穴の出入り口を茨の枝で塞ぎ、兵士たちに馬を使わせて佐伯を奇襲しました。佐伯はすぐに穴に逃げ帰りましたが、慌てていたので茨が体中に突き刺さり、傷だらけになったものや死んでしまったものがいました。ぼろぼろになった佐伯は散り散りになって、土地からいなくなりました。

この地は茨によって佐伯を退治したことから、あがたの名称にしたといいます。

wata

もうひとつの由来は「黒坂命が茨で城を造って佐伯と戦ったので茨城なった」です。異なった由来を紹介していることが面白い!もし常陸国風土記が権力者の書いたものなら自説だけ残しそうですよね

信太の郡(逸文)には黒坂命が亡くなったとあります。黒坂命はもともと東北地方の蝦夷えみしと戦うために派遣されたのですが、東北を平定した帰りに角枯つのかれの山(いまの竪破山たつわれさん。日立市十王町のあたり)で病死しました。

そのあと黒坂命の遺体は遺言にしたがって日高見の国(いまの美浦村のあたり)まで霊柩車で運ばれました。それが黒坂命のお墓が美浦村にあると考えられる、もっとも重要な記述です。

MEMO

美浦あたりが信太の国と呼ばれるようになったのは、黒坂命の葬儀で使われた赤い旗が垂れていたことによります。(しだれる国=信太の国)

黒坂命古墳

そんな伝説の人物・黒坂命が眠るとされる古墳が美浦村の大塚にあります。わかりにくい場所ですが、興味のある方はぜひ足を運んでみてください。

黒坂命古墳立て札

立て札もバッチリ。村指定の文化財です。この立て札は古墳の入り口と反対側にあります。ぐるっと回って正面へ。

黒坂命古墳(厳島神社鳥居)入り口

厳島神社の鳥居があります。村の方に話を聞くと、近年”追加”されたそうです。鳥居をくぐって、整備された石段を登ります。

黒坂命古墳の頂上

色鮮やかな植物があります。この土地の持ち主が景観を保ってくれているそう。頂上には、(右から)古墳記、黒坂命供養塔(五輪塔)、厳島神社、稲荷神社があります。

黒坂命古墳の石碑

古墳記には、おおむね前記した黒坂命のことが書かれています。稲荷神社は黒坂命古墳の発見と重要な関係があります。

黒坂命古墳の発見

ここが黒坂命古墳とされた経緯をご紹介します。もともと小高い場所の頂上には弁天様を祀った祠がありました。そして、少し下がったところに稲荷神社がありまして、それを弁天様の場所に建て直そうとしたところ石棺せっかんが発見されました。

建て直した理由は村に不幸があったので社をもっと大きくしようとしたからです。発見された場所は弁天様の祠のすぐとなりです。1847年の江戸時代のことでした。

石棺といくつかの出土品が発掘されましたが、誰のものかすぐにわかりませんでした。それを黒坂命のお墓ではないか、としたのは土浦藩の国学者色川三中いろかわ みなか。三中はもともと商人でしたが、とても教養のある方でした。商売の第一線を退いてから、学者として活躍したすごい人物です。また、日記を31年間続けたことでも知られています。(日記は『家事誌』といいます)

その三中が黒坂命墳墓考くろさかのみこと ふんぼこうを残していますので併せて紹介します。

黒坂命墳墓考

黒坂命は風土記にしか登場しませんからその人物のお墓だとするのは勇気がいることです。三中がなぜそう思ったのかを辿ってみます。

出土品は武具ばかり

三中は発掘してすぐにそのことを知ったわけではありません。正確な時期はわかりませんが、発掘の翌年(1848年)に古墳に足を運び考察をしました。黒坂命墳墓考としてまとめはじめたのはその翌年(1849年)だとされています。

お墓のことはずっと考え続けていましたが、当初から黒坂命のものだと見込んでいたよう。理由は出土品が武具ばかりだったからです。以下が出土品に関する内容です。

出土品
  1. 石棺
  2. 剣 x1 ・・・4つに折れてしまっている
  3. 甲冑 x1 ・・・ちゃんとした状態
  4. 石鏡 x3
  5. 青銅鏡 x1
  6. その他、形の分からないもの x43

三中は風土記とこの地にゆかりのある武人という連想からたどり着いたのでしょう。それだけでも素晴らしいことですが、三中はこのことを細かく記録して自分の考えを述べています。三中は歴史を大切にしていたので自分も後世に残そうとしたのだと思います。

wata

墳墓考は単に思いつきを書いていたのではありません。当時としては充分な考証をしていて、三中の慎重な性格が伺えるものです

黒坂命墳墓考の概要

黒坂命墳墓考は弁天塚古墳の出土品から考証したもの。結論としては黒坂命のお墓としていますが、書物自体がとても面白いです。黒坂命墳墓考はぜんぶで4種類あるのですが、内容を4つにわけているのではなくそれぞれ役割があるのです。

4つのノートの使い分け
  1. 1冊目)草稿。発掘状況、参考にする古典記事の抜粋、その他メモ
  2. 2冊目)1をもとに文章にしたもの。1ページ10行で書かれている
  3. 3冊目)2の清書。文字や言葉を改めてある
  4. 4冊目)出土品や場所のイラスト集(図)

ややこしいので説明を省きますが、完成版は2冊目。自分の主張を証明するためにしっかりと根拠を揃えてから書いていたんですね。

しかも文だけではなく絵まであるんです。(誰かに書かせたようです)内容にはかなり大胆な部分もありますが、立派な学者だったと思います。

色川三中はどんなことを考えていた?

改めて三中はどんなことを考えたのでしょうか。

三中は風土記の他に日本書紀も考察。蝦夷の征伐は天皇の忠臣武内宿禰たけうちのすくねが景行天皇25年(西暦95年)から27年に東北を巡回したあと天皇に進言してはじまりました。

それから40年の日本武尊やまとたけるの派遣まで13年も空白があるので黒坂命はこの時期に活躍した人物だとしました。

風土記に黒坂命の肩書が『大臣』とあったので武内宿禰の一族だとしています。(ただし、この考えは現代では間違いとされています)さらに黒坂命との由来をいくつも発見し考えを強めていきました。

黒坂命が亡くなった場所から古墳まで運ばれたルートを考えたり、古墳をつくったのは黒坂命の子孫だといった意見もあります。

当時、このようなことを考えた人はどれくらいいるのでしょうか。知識があって慎重に考えながら大胆なことをいう、きっと現代でも魅力的な人物です!

結局は誰のお墓なのか

三中はいろいろと考察をしましたが、誰のお墓だったかはいまだにわかりません。出土品がすべてなくなってしまって、もう調べることさえできません。

出土品は実際にありました。三中は出土品の絵を残していますし、明治以降も土地の所有者が持っていました。美浦村誌には出土品の写真(モノクロ)が残っています。

わたしが聞いたお話では、出土品は所有者が亡くなったあとに行方不明とのことなので、もしかしたらどこかに眠っているかも。。

アクセス

名称黒坂命古墳、弁天塚古墳、大塚古墳
住所茨城県稲敷郡美浦村大塚89
駐車場なし

まとめ

長くてなったので内容をまとめます。

  1. 黒坂命は常陸国風土記にだけ登場する人物
  2. 黒坂命は東北の蝦夷の征伐が任務だった。任務完了後に亡くなって、いまの美浦村まで運ばれたと云われる
  3. 美浦村の大塚古墳が黒坂命のものだとしたのは、土浦藩の国学者・色川三中
  4. 三中は出土品と古典の記述から考証をして『黒坂命墳墓考』を残した
  5. 結局、誰のお墓だったのかはわからない。行方不明の出土品が見つかったらわかるかも

wata

土浦の学者が美浦でも活躍していたのは喜ばしいこと。地域をまたいだ活躍は調べにくいものですが、それぞれの地域の歴史家のおかげです!

正直なところ、わたしの書いたことは間違いがあるのではと思います。内容が難しくて理解できないことがいくつもありました。でも、新しく知ったことや間違いがわかりましたら訂正・修正しますので、温かい目で見てやってくださいね。そして、ここに書いてないことや間違いがあったら、ぜひご一報ください。

参考文献

常総の歴史 第41号/崙書房
次の世を読みとく -色川三中と幕末の常総/土浦市立博物館
常陸国風土記/発行:財団法人常陽藝文センター
美浦村史研究5号/美浦村史編さん委員会
美浦村誌/茨城県美浦村