山田八坂神社の山田祇園祭|行方市

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夏といえば祭り。そしてその多くは祇園祭です。八坂神社や素鵞神社などかつて牛頭天王をお祀りしていた神社のお祭りです。旧暦の夏の土用に開催されており、現代では7月中旬から8月上旬にかけてが多くなっています。

祭りでは御祭神を乗せた神輿や山車が氏子のいる町内を練り歩きます。日本人であればこれを見たことがないということはないでしょう。ただ、地域によってはそうした風景が少なくなってきているようですけどね。

今回はそんな祇園祭を一風変わった形で続ける行方市山田の八坂神社をご紹介します。初めて見る方は乱暴な印象を持つかもしれませんが、それには歴史と伝統に基づいた理由があるのです。ぜひお読みください。

山田八坂神社と「山田祇園」とは

山田八坂神社

山田八坂神社

山田八坂神社の由緒はハッキリとは分かっていません。『北浦の民俗』では祭りとあわせて次のように紹介されています。

山田祗園は、八坂神社の祭祀である。祭祀した年代は確かでないが、言い伝えや、神社内の樹令から約二〇〇年前頃と推定される。祭祀した由来は、現在の麻生町白浜の通称天王様の祭りの際、当時、疫病の流行や神輿振りが荒いことなどから、北浦に流されたと、伝えられている。流された神輿は、当時、山田村の儀右エ門(今の古内文啓氏先祖)の稲田(来通田)に漂着した。儀右エ門はさっそく自宅庭先に社を造り、遷官した。当時、北浦を高瀬
舟が往来しており、そこを通ると舟足が止まるという。また村内に疫病が流行し、多くの死者がでたため、村人が相談し、現在の地に新殿を造営し遷官したところ疫病はたちまち鎮まり以後村人の信仰が厚くなったといわれている。

創始されたのは300年ほど前。御祭神は素戔嗚すさのをとされていますが、元来は白浜と同様に牛頭天王でした。素戔嗚命は明治の神仏分離政策によって牛頭天王に代わった神号です。「八坂」も同様の経緯で牛頭天王社や祇園社から置き換えられたと考えられます。全国の八坂神社は同じ事情でしょう。

牛頭天王の祭りを祇園祭といい、旧暦の夏の土用、すなわち6月下旬に催されるのが通例です。ただし、当社はその祭りが大変個性的です。それについて再び『北浦の民俗』から引用します。

 現在は、毎年七月二十九日を宵祗園、三十日を本祗園と呼び、前日から神幸(神が神輿に乗って出る)の儀式が行なわれ、社殿の扉は閉されたままであり、数十人の若い衆は、先を競って神輿を出そうとするため狭い社殿は身体と身体のぶっつかり合いが行なわれ、数十分後に神幸する。神輿が出た後、神前において神輿振りを行ない、社近くに設けた疫病神の仮舎を踏み漬し、威勢よく神輿を振りながら天王宿通りを行進する。その間、すべて行動は、世話人の大鼓の打ち分けによって進められ、先頭には古老格が、祗園尊を唄えながら北浦湖岸へと行列は進む。神輿が漂流した田に到着するや、田の中で泥まみれの神輿振りを行った後、お浜下りをし、水中で神輿振りを行い、魚を獲えるまで振り続け魚を獲えた後、神興を振りながら御仮舎に還る。その際、田から稲穂を、北浦から魚を持ち帰えり神前に奉納して宵祗園が終わる。
 本祗園は、宵祗園同様、御仮舎から威勢よく神輿振りが行なわれ、天王宿を通りを数回往復するが、宵祗園に比較して儀式が少ないため早めに終わり、神輿を洗い浄めて、遷幸(神が社殿に遷える)の儀式を行ない祗園祭りを終了する。

「暴れ神輿」の異名はこうした荒々しい様子からついたのでしょう。疫病神の仮舎を踏み潰したり魚の生け捕りをしたりといった慣習も面白いですね。また、『北浦の昔ばなし』によると、祭りでは頭になにか冠する行為が厳禁とされたり、祭の日になると不思議なほど決まって北風が吹くといった話があります。

これらは実際に参加されている方々であっても意味がわからないのではと思います。なんともミステリアスで好奇心が湧きませんか。

八坂神社本殿

八坂神社本殿

舞台となる八坂神社は決して大きな神社とはいえません。『茨城県神社誌』を見ると同字の大枡神社の項目に記載されていましたので、おそらくは同社の境外社という位置づけです。八坂は個人的な信仰から始まったので、それが村社である大枡に吸収されて兼務社として存続しているのではと思います。

祭り1日目

日中神幸した山車

日中神幸した山車

私が訪ねたのは祭りの1日目です。写真に収めておりませんが、日中は山車が地区を神幸していました。夜になると本殿前で儀式が催されます。時間は6時を少し過ぎた頃。会場には役場の他にNHKやフジテレビ、茨城新聞などのメディアが取材に来ていました。数年ぶりの開催となった「奇祭」として注目されているようです。

大勢の見物客が集まる中、はじめに祭りの概要について説明がありました。概ね前述の由来と同じだったかと思います。それが終わると東側の道路から若者たちが駆けてきます。そして到着するなり社殿の正面にある梁に手をかけて、ぶら下がるような形で扉を蹴り始めます。わたしが見た祭りの中でも特に荒々しい様子でした。

梁に手をかけて社殿の扉に蹴り

梁に手をかけて社殿の扉に蹴り

次から次へと若者たちが駆けてきて、前の者たちと同じように蹴ります。社殿の中には別の若者がいて、扉が開かないようにもみ合っているんです。それが暫く続くと扉が開いて中から神輿が登場。神輿はすぐさま担ぐための棒が取り付けられ、担ぎ手によって激しく振られます。動きもさることながら怒号のような声があるので現場はド迫力。ちょっと怖いくらいです。

疫病とされる砂山

疫病とされる砂山

神輿の担ぎ手は鳥居をくぐって境外へ。すぐ近くにあるしめ縄が張られた小山へと向かいます。中央の山には黄色の旗。その四方には緑、赤、白、紫の旗。明らかに五行説の五気を示す配色です。(厳密には紫は黒であるべき)

踏み潰される「疫病」

踏み潰される「疫病」

現地ではこの山を「疫病」と説明していました。これを神輿で踏み潰すことによって祇園祭の本来の目的である疫病除けへと通じるということなのでしょう。感染症が流行した昨今にもっとも相応しい祭りといえますね。

東側の参道を往復

東側の参道を往復

神輿は担がれたまま東の道路へと神幸します。先導役は世話人と「御祭禮」の提灯を持った男児です。小太鼓の音が響く中、わっしょいと掛け声を轟かせながら往復して社殿前に戻ってきます。

神輿を叩きつけ

神輿を叩きつけ

そしてここからが暴れ神輿の本領発揮。激しく上下に揺さぶったあと、思い切り地面に叩きつけ。ナニソレ!

神輿で「穴」を作って見物客を通過

神輿で「穴」を作って見物客を通過

なるほど。これをやるから神輿の寿命が短いわけです。なんどか叩きつけた後には、大勢で高く掲げてその下を見物客に通させます。これは前述の祭りの解説にもなかったこと。しかし、おそらくは古来からの伝統なのでしょう。

蓮田へ向かう神輿

蓮田へ向かう神輿

神輿をボコボコ?にしたところで次は蓮田へと向かいます。ふたたび提灯を先頭とし賑やかな掛け声とともに神幸です。時刻は夜6時30分過ぎ。辺りが薄暗くなってきて幻想的なマジックアワーに突入です。

蓮田へ神輿を放り込む

蓮田へ神輿を放り込む

10分ほどしてしめ縄の張られた蓮田に到着。若い衆が泥の中に飛び込むと続いて神輿を転がすように投げ込みます。人と神輿はもちろん真っ黒。神輿の上からダイブする謎の慣習があるようでけが人が出そうな勢いです。

泥まみれになってから北浦へ

泥まみれになってから北浦へ

全員泥まみれになったところで北浦へ。夏至も過ぎているので7時近くとなるとだいぶ暗いですね。昼からこの調子なのでみんなクタクタのはず。でも、暑さが和らいでいるので見物客の体力はちょっと回復しています。

御浜下り

御浜下り

北浦へ御浜下り。山田に限らず牛頭天王はその体に疫病などの災厄を封じた後に川に流される慣習があります。わたしが住む土浦の真鍋八坂神社も同様で、御神体はつくば方面(一の矢八坂?)から流れ着いたと伝承されます。

北浦でお清め

北浦でお清め

神社の手水に代表されるように、水には清める力があるということなのでしょう。御祭神が乗った神輿は北浦で活力を取り戻した後に御仮舎へ帰還するのです。いやはや実際に見てみると凄まじい。貴重な体験ができました。

五行説と易から考える山田祇園祭

奇祭とも呼ばれる山田祇園祭。その意見には賛同します。しかし、意味不明かといえばそうではありません。なぜなら祇園祭には五行説と易といった哲学による論理が存在するように見えるからです。

過去の記事と重複するのですべては説明しませんが、祇園祭は牛頭天王の祭りであり、祭りの本質は夏の土用に生じる災厄を避けることにあります。災厄としてよく挙げられるのは疫病のまん延ですね。

その論理は五行説と易で説明できます。おおむね次のような理由によるのでしょう。

社殿に納められた神輿を取り出すために扉を蹴りつけるのは足(木気)を使って神輿(牛頭天王=水気)を封じている社殿(土気)の力を弱めるため。木気と土気の関係は木剋土。木気が土気を鎮めることで土剋水の性質が弱まり、牛頭天王が動き出すというシナリオです。その後、災厄に見立てられた砂山が担ぎ手たちによって踏み潰されるのはダメ押しといったところでしょう。

神輿は叩きつけられたり、担ぎ上げてその下を人々を通したりしますが、これは水気の本性が「潤下」といって上から下への移動であることと易の八卦の思想において水気が「坎」にあてられていることに由来するのでしょう。坎には穴という意味があります。だから神輿を使って穴を作っているのだと思います。

水気の色は黒です。そしてもちろん水は水気そのものといえますから、蓮田で真っ黒にしたり北浦に沈めたりするのでしょう。乱暴に見えるようでじつは牛頭天王に活力を与えるような理屈が成立しているのです。

また、『北浦の昔ばなし』にある「祭の日はなぜか北風が吹く」とか「頭にはなにも冠してはいけない」といったお話も五行や易と関係しています。水気の方位は北、前述した八卦の坎は人間の部位だと頭を示します。こうした奇妙な伝承の背景にもそれなりの理由があるのだと思います。

という感じでいろいろと考察してみましたが、これは五行説や易によって一応の説明はつくという程度のことです。それが文献などによって直接伝わっているわけではありませんから参考程度にとどめておいてください。

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