wata
戦国時代の武将は、命のやりとりをすることが多いせいか、救いを求めて、仏教に強い関心を持つことが少なくありませんでした。有名どころでいえば武将として最強クラスであった武田信玄や上杉謙信かと思います。
どのような宗派やお寺に記するのかと言うのは、間違いなく土地柄に影響します。武将として活躍する前から存在したであろう寺院に対して崇敬の念を抱いていた事は多々あったことでしょう。
つくば市だと何といっても小田氏。小田氏の信仰は特に真言宗に対して強かったと言われます。県南の小田四ヵ寺などが有名ですね。
今回ご紹介する東福寺も小田氏の有力寺院の一つである事は間違いありません。またこのお寺は実は滝夜叉姫と呼ばれる平将門の娘とも関係しているのです。
この記事でわかること
- 由緒とご利益
- 「桜川新四国八十八カ所」について
- 如蔵尼の墓の場所
由緒
忍性菩薩により創建
小田氏の祈祷寺として小田氏より多額の祈祷料を寄せられる。また小田氏が東福寺にこもったことで焼き討ちにあったことがあり、その後に同地で再建できずに現在地に移ったという。
末寺を整理統合。多数の末寺・門末を有したが、現存するものは14ヵ寺1仏堂。
*『桜村史上巻』
ご本尊は聖徳太子が彫り、如蔵尼がもたらしたと伝わる延命地蔵菩薩像です。安全や子育てにご利益があるといわれています。境内に地蔵菩薩の石像が多いのもご本尊の影響かもしれません。
当寺を祈願寺とした小田氏は中世に大きな勢力を誇っていました。そのおかげもあって、かつての石高は十万石ともいわれ、明治の初めに末寺を整理・統合するまでは周辺の誰もが知るような有力寺院でした。
また当寺の二十世である慧海僧正は和州初瀬の長谷寺の住職の経歴があります。東福寺の本堂・庫裏・山門改築のために、当時の金で二万両の金子を馬で送ったと伝わります。
しかしその金子は予定の通りに使用されなかったので、それを見ようとやってきた僧正は途中で控えて引き返してしまったとか。なんともユニークなエピソードですね。
かつては東福寺に隣接する横町に心寿院、吉祥寺、蓮華寺、慈恩寺などの末寺がありました。
アクセス
名称 | 作蔵山 延命院 東福寺 |
住所 | 茨城県つくば市松塚665 |
駐車場 | あり |
Webサイト | なし |
境内入口
駐車場が境内の南西側にあるため、ほとんどの方はこちらを入り口とするかと思います。ただし本当の入り口は東側かも。というのも東には巨大な仁王門があり、入り口としてふさわしいためです。
以前こちらにお参りした時は、入り口付近に石の板がありました。そちらが当寺でなくなったという如蔵尼の石棺であったといわれます。今は片付けられてしまったかな?
参考までに2017年にわたしが撮影した石畳の写真を載せておきます。このサイズなので見落とすはずはないと思うのですが…
ちなみにその石棺の石畳に関しては一部を近隣の民家に利用されたのですが、その民家は不幸が続き潰れてしまったという噂が。祟りだなんだのと言う話ではないかと思うのですが…
石柱には作蔵山東福寺と書かれています。そしてその左側には、「栄幼稚園」とあります。お寺と幼稚園は一体となっているようですね。
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本堂
この立派な本堂は平成になって再建されたもの。以前はこのような形ではなく、素朴な寄棟造りをしておりました。向拝の水引虹梁に見える彫刻はその頃の名残なのでしょう。
三人が何やら対談しているようす。中国の故事に由来すると思われます。扁額にあるのはおそらく「延命地蔵尊」。草書体なので少し分かりにくいかもしれませんね。
向拝の柱の下部には謎の生物が見えます。たしか「亀趺」という亀の一種で柱に潰されることを快感としていると聞いたことがあります。同じものが水戸の桂岸寺にもありますね。
その上の柱には天邪鬼らしき彫刻。カッと目を開いていますのでちょっと怖い!
四国霊場
扁額に「四国霊場 第壱番」とある建物がありました。新四国八十八ヶ所巡拝の霊場ということで、四国のお大師様ゆかりの霊場を写したようです。『桜村史』から引用します。
東福寺桜川新四国八十八カ所巡拝
<発祥>二九世明光は小田の長久寺から昇進して東福寺住職となり、この地方の民衆の心の荒廃するを憂い、弘法大師霊場八十八カ所を数度巡拝し、その霊場の土砂八十八袋を持ち帰り、土浦より北条の間にある桜川両側の東福寺末寺を中心とした各寺に弘法大師霊場の塔を建立を勧進し、天保五年三月二十二日に後説の通り大師堂を建立した。今日の大師様巡拝はこの時に始まった。この巡拝者には各寺で接待に握り飯を用意して迎えた。この握り飯は接待する者の心を表わしたもので今日でもそれが続いているのである。
桜村史(上巻)
まったく知りませんでしたが、霊場は東福寺以外にもたくさん残っているのではないでしょうか。さすがにぜんぶが健在とは思えないのですが…
実際に参加された方が霊場の場所を載せておりますのでご参考まで。(新四国東福寺 桜川八十八ヶ所霊場巡り)
仁王門と流れ仁王
楼門は江戸時代に建てられました。大変立派な建物で驚かされます。慧海僧正により正徳3年(1713年)に建てられたものですが、じつは仁王像は別なのです。
仁王像は筑波山の大御堂(護持院)にあったもの。明治の神仏分離の騒動により、ほとんど避難という形で移されてきました。そのとき川を経由したことから、「流れ仁王」とも呼ばれています。
東福寺の慧海僧正が大御堂の住職を兼ねていた縁から移されることになったそうです。
大御堂の堂宇の一部は以前に慶龍寺(つくば市泉)の記事で紹介したように何箇所かに点在しています。慶龍寺の場合は大御堂の鐘楼堂や天部衆の立像が安置されております。
慧海僧正は本当にすごい人。真言宗豊山派の総本山・長谷寺の能化を務めました。豊山派はたぶん県内の真言宗寺院の派としてもっとも多いと思います。
如蔵尼の墓
お寺の境内から西に200メートルほど進んだ畑の中に如蔵尼の墓があります。本来はここではなく東福寺そばの西福寺(尼寺)にありましたが、区画整理等の事情もあって移されたのではないかと思います。
写真で見ると目立ちます。周辺が建物と草木で遮られているので発見するのはちょっと難しいかも。墓地には卒塔婆が建てられているので、近づけば確認ができるかと思います。
如蔵尼が「滝夜叉姫」という恐ろしげな名前で呼ばれるのは歌舞伎の演目『忍夜恋曲者~将門』によるところ。父の恨みを晴らすために貴船明神の力をかりて鬼と化すわけです。
しかし、東福寺はそうした人物像としては捉えておらず、父の供養を願う娘として、「滝夜叉姫」ではなく「滝夜盛姫」と呼び毎年卒塔婆を立てて供養しているそうです。
・東福寺は小田氏ゆかりの大寺院。かつて多くの門末寺院を有した
・二十世の慧海は非常に有名で豊山派の大本山である長谷寺で住職の経歴がある
・滝夜叉姫の墓は東福寺の西南にあり、毎年東福寺で卒塔婆を立てて供養している
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。
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