wata
地味に楽しいめぐり。茨城県で天妃(媽祖ともいう)を祀っている寺社といえば水戸の祇園寺、北茨城市の弟橘媛神社、小美玉市の天聖寺、そして今回ご紹介する大洗の弟橘比売神社です。
このうち大洗以外には尊像(磯原は旧像を引き上げられた)があります。とはいえ、祇園寺の像は大洗から渡ったものといわれているのですけどね。天妃は海上守護の御神徳があるといわれる女神です。
神道にはない特別な神様ですから、各寺社をめぐりやすい県民ならぜひとも抑えておきたいところです!ぜひ記事を参考にお参りしてみてくださいね。
由緒
以下の由緒は主に『茨城県神社誌』を参考にしています。
4月6日、水戸藩主徳川光圀公の命により創建。東皐心越禅師の持つ天妃神(媽祖権現)の尊像をまつり、海上の難を救うとして磯・湊両村の鎮守社とした。社前には大行灯を毎夜灯して船の目標とされた。
水戸藩主徳川治保公、金百疋を寄進。
水戸藩主徳川斉昭公の時代に天妃像が引き上げられ、祭神を現在の弟橘比売命とした。
無格社沖洲神社と合併して現在地に遷座。
ご祭神は弟橘比売命と豊御食津大神の二柱です。 前者は由緒にあるとおり、天妃から置き換えられました。ただし、地元の方は今でも「天妃さん」として信仰しています。
オトタチバナヒメと天妃はいずれも海上守護のご神徳があるといわれます。ヒメは夫であるヤマトタケルのために身を投げて荒ぶる海を鎮め、天妃は神格化される前(生前)から港町で人々を救済していました。
後者は合併した沖洲神社のご祭神です。伝承によれば、同社は野見判司が伊勢豊受大神を分霊して鎮祭したとのこと。つまり本来はトヨウケヒメを指すかと思います。
当社を建立したのは水戸藩主であった徳川光圀公です。元禄3年のことだと言うので、おそらく藩主の座を綱條に譲る直前だったのでしょう。
創建当初は明から日本に渡った東皐心越が所持していた天妃像をご神体にしたといいます。心越は日本に天妃信仰を持ち込んだ代表的な人物のひとり。中国に近い西日本で多い同信仰が、茨城にあるのは心越のおかげですね。
なお、ご神体は徳川斉昭公の時代の寺社改革によって水戸の祇園寺に遷されました。祇園寺は心越が晩年を過ごしたお寺ので、ゆかりの場所に安置することがふさわしいとしたのでしょう。
その一方で天妃は異朝の神であるので、神社に不適切とする考えも藩内に強くあったと思われます。海上守護の神徳があるとして信仰を集めていたので、かなり乱暴な改革になってしまったようです。
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アクセス
名称 | 弟橘比売神社 |
住所 | 茨城県大洗町祝町7985 |
駐車場 | なし |
Webサイト | なし |
鳥居
こちらが弟橘媛の入り口で那珂川の河口に近い小高い場所に立っています。昔はもう少し川に近い場所にあったそうですが、河口流域の改修工事のために近くにあった沖洲神社と合併の上で現在地に遷座されました。
周辺に駐車場は無いので例祭の日などは皆さんどこに車を止めているのでしょうか。個人で参拝するのであれば駐車はそれほど難しくないと思うのですが。
ちなみに、写真の左側に見える道路は社殿に続いています。石段を登るのが大変な方はぜひご利用ください。
拝殿
石段の先にある境内の全体です。参道の右手にあるのが手水舎、正面には拝殿と言うシンプルな作りとなっています。狛犬や石灯籠などでしっかりと飾られていますね。
参道の左手には東屋がありました。普段人が訪れない神社で、こうした建物があるのは比較的珍しいのではないでしょうか。少し前までは例祭になれば大変な賑わいだったそうなので意外に利用する方が多いのかも。
ちなみに江戸時代は例祭を「菩薩祭り」と呼んでいたそうです。天妃=菩薩の意味かと思いますので、人々を導く身近な存在として認識されていたのでしょう。
拝殿はシンプルな入母屋造。手前に陶器のような色合いの狛犬がおりますが、触れたところどうも石造り。味わい深い造形なので機械彫りではないかもしれませんね。。
扁額にあるのはもちろんオトタチバナヒメ。幕末の頃に改められましたから、この祭神としての歴史は大体180年ぐらい。
拝殿の柱には右の木札も見えました。一瞬なんのことかなぁと思ったのですが、やはりオトタチバナヒメの事でしょう。「天」は「あめの」と読むのでしょうか。オトタチバナヒメは高天原にいないのですが。
境内にはいくつかの錨がありました。これは大洗磯前神社にも見える光景で、役目を終えて神社に奉納されたのではないでしょうか。海上守護の神を祀る神社らしいではありませんか。
本殿
拝殿の後は少し距離があって本殿となっております。厳重な瑞垣に囲まれているので中がよくわからないのですが、あまり高くないので実は中の様子がわかるようになっています。
興味深いことに本殿の前には、小さなキツネの像が狛犬のように置かれています。キツネといえばお稲荷さま。あくまで神様の使いという立場なのですけれど。
当社は稲荷神社でないのになぜキツネがあるのでしょうか。御祭神のトヨミケツは「三狐神」と当て字することがあったので、キツネと結び付けられたという説があります。
トヨウケヒメの使いがキツネというのは、ほとんど聞いたことがないと思います。ただ、当地のお隣りにある那珂湊(ひたちなか市)の四郎介稲荷はご祭神がトヨウケヒメ(ウカノミタマと同体)です。
詳しいことはわかりませんが、この辺りではトヨウケヒメを稲荷神として捉えることがあったようですね。アマテラス無しで単独で布教されたようなのは伊勢神道(度会神道)の御師がいたせいだったりして。
それにしても、赤い頭巾を被る狐は可愛らしいですね。普通は前掛けだけだと思います。
キツネやお稲荷さまといえば鳥居や社殿が赤いことで知られています。なぜ赤なのかといえば、魔除けの色という説が聞こえてきます。しかしそれなら稲荷以外の神社でもよく見られるはず。
わたしは五行説による解釈が腑に落ちます。稲荷は五穀の神にして土気に属する。土気は火気によって生じるから、火気の色である赤は欠かせない。稲荷神社の例祭が午の日なのも火気がもっとも強化される日だからです。
キツネが油揚げを好むという話はよく知られているものの、ふつうに考えればありえません。それは油揚げがキツネと同じ黄色で同気であると考えられるからでしょう。
土気には「土剋水」といって水の働きを弱める性質があります。その力が荒れる水面を鎮めて船の運行を快適にする。だから港町では不思議と稲荷信仰があるのです。前述の四郎介稲荷や神岡稲荷(北茨城市)しかりですね。
キツネ像
本殿の裏側を進むと小さな境内社があります。と社と言うのではなく、あくまで石像が安置されているだけ。手前に見えるのは、狛犬代わりの狐像です。
像の土台の部分に珠と鈎があるのがわかるでしょうか。この2つが台に描かれることは珍しいと思います。ちなみに花火師の玉屋と鍵屋の由来は伏見稲荷のキツネ像が咥える珠と鈎から名付けられたとも言われます。
1番奥にある最も重要そうな象もやはり狐です。頭にはもちろん赤い頭巾。何か躍動するかのような姿ですね。
手前に見えるのは何でしょうか。いくつが手があるので青面金剛かと思ったのですが、足元に定番の邪鬼がなかったのでおそらく違います。頭が複数あるので十一面観音?肩のあたりにもあるのでやっぱり違うでしょうね。
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・祝町の弟橘比売神社は徳川光圀公の命で天妃(媽祖権現)をまつっていた。
・天妃は海上の安全を守護する異朝の神だが、日本でも港町で信仰されていた。
・天保時代に水戸藩の政策によりご祭神が交代したが、いまも「天妃さん」として親しまれている
茨城県神社誌|茨城県神社庁
常陽藝文 2007年4月号
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。