wata
さいきんの行方市は市内のイベントとその広報に熱心です。おかげで今まで知らなかったお祭りを知る機会となりました。
今回ご紹介するのは青沼の春日神社です。毎年勤労感謝の日(11月23日)に「どぶろく祭り」を開催する変わった風習があるのです。
なぜどぶろくなのか、なぜ茨城で春日神社なのか、いくつもの謎がありますので、そうした謎解きをしながら参拝するのも楽しいかと思います!
由緒
島須城主(島崎城主?)島崎左衛門尉の一族で代々足利氏に属した相賀三郎により社殿神域は荘厳を極めたという
いわゆる天狗党の乱の兵火により社殿焼失
摂社(下の宮と伝わる)の住吉神社を境内に合併する
御祭神は奈良の本営(春日大社)と同じく以下のとおりです。
- 武甕槌命
- 経津主命
- 天児根命
- 姫大神
鹿行の神社でタケミカヅチを御祭神にしているにも関わらず鹿島の社号を用いていないのが面白いところ。意外にも春日社は鹿行地域にいくつもあるようですね。
相賀八郷の総社で、かつては上社(当社)、下社(住吉神社)、神宮寺によって構成されていました。下社は境内に遷座され、神宮寺は明治初期に廃寺となっています。
島崎氏が崇敬した神社なので戦国期に隆盛を極めたと思われます。由緒には天正期に勢力旺盛とありますが、島崎氏は同時代に佐竹氏に滅ぼされたので「荘厳を極めた」の表現は領主を偲んでのことかもしれません。
当社の最大の特徴といえば例祭のどぶろく祭りです。どこの祭りでもお酒は飲むと思いますが、それがメインとなるのは非常に珍しく、奇祭と言っても過言ではありません。
現在は勤労感謝の日、すなわち新嘗祭にあわせて催されます。しかし、歴史をさかのぼるとこの祭事は旧暦7月8日(28日とも)でした。青沼に神を迎えた喜びをわかつため酒を振る舞ったことがはじまりとされています。
古い時代の儀式として呪言(呪文)が唱えられていたと云います。なにやら奥深い背景があったようで、もしその時代のことを知っている方がいたらインタビューしてみたいものです。
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『茨城県神社誌』では御祭神はタケミカヅチのみです。
アクセス
名称 | (青沼)春日神社 |
住所 | 茨城県行方市青沼492-1 |
駐車場 | あり |
Webサイト | なし |
鳥居
祭の日らしく立派なのぼり旗が掲げられておりました。ふだんは神社傍の駐車スペースが利用できるようですが、この日は関係者によって利用されていたので鳥居の正面の通りにある公民館のような敷地に駐車しました。
わたしが訪ねたのは午前10時半ごろ。祭り自体は10時にはスタートとのことでした。ただ、準備の整っていない露店も多く、昼を過ぎた辺りから本格的に賑わうのではないかと思います。
『なめがた日和』の記事を見ますと、辺りが暗くなっても続いているようですね。祭りは当番制で「久保組」→「台組」→「波篭組」→「馬場尻」と回るのだとか。4組もあるのであれば、たしかにもっと賑わっていいかも。
旧社格は村社。鳥居、狛犬、手水舎、社殿と素朴ながらも神社らしい要素はすべて揃っています。これに加えて特殊神事があるのですから誇らしき氏神に違いありません。
ものすごく愛嬌のある狛犬。新しい狛犬は写実的でかっこいいと思う一方でこうした親しみやすいタイプもたいへん結構ですな!
社殿と天然記念物のスギ
竹で持ち上げた「御祭禮」の提灯が燈籠代わり。その下に吊るされた提灯もいい味を出しています。提灯の文字は「あ」。社号とは関係なさそうなので小字の「青沼」に由来するのでしょうか。
ふだんは見れない拝殿内の覗きながら参拝。「春日皇大神」の神号が目に止まりました。むむっこの呼称は。。個人的には「皇」の文字の利用には注意が必要だと思っています。
そうそう、これこれ!個人的には神号とするなら扁額の「大明神」が好みです。特に神徳のある神様に対して用いられ、響きもいい!
拝殿の傍には太鼓がスタンバイされていました。このあとお囃子の奉納があるようですね。境内にタイムスケジュールがあるわけじゃないので、地元の方なら知っていて当然なのでしょう。
境内の石碑に苦労して再建したという本殿も拝ませていただきました。昭和期の後半に建てられたにしてははずいぶん重厚な雰囲気。赤みを帯びた配色も今風とは言い難いほど。
向拝柱の木鼻は獅子、それも獅子舞の方の。個人的には激レアです。この発想はなかった。
脇障子は御幣のようです。これも記憶にありません。個性的なのは祭りだけかと思っていたので意外な収穫を得られました。
本殿に寄り添うようにそびえているのが市の天然記念物になっているスギです。樹齢500年といいますから、当社が島崎氏の崇敬を受け、最盛期を迎えていた頃に植えられたようです。
その手前にある小さな祠は天保期に建てられた子安観音と享保期の淡島大明神です。いずれも女人講によって祈念されていたのでしょう。手前には真新しい御幣が奉じられていました。
本殿の向かって右手側に鎮座するのは住吉神社です。面白いことに本殿側を向いています。この神社も春日社と同様に著名でありながら茨城ではその数は多くありません。こうした独自性はどこから来るのでしょうか。
まるで別の地域から持ち込まれた信仰がいつの頃からか土着化したような印象を受けます。県内の春日神社は藤原氏が鹿島神社とは別に祖神を信仰するために建てられることがあるのですが、当社は違うような気がします。
境内を一巡りしたところでどぶろくを頂きました。お礼は賽銭箱へ。こちらは基本的に無料でいただけるようです。車で来ているのでその場では飲めませんけどね。
どぶろくはお酒なので、酒税法の関係で製造にはいくつかの制約があります。ただ、そのあたりは製造する量を調整するなどしてクリア。税務署も公認しています。
市の職員は次のように説明しています。
行方市経済部商工観光課の職員は、「どぶろくは、米、米麹、水を醗酵させて作る白く濁ったお酒です。免許がないと作ることができないので、これを作ることができる神社は全国でも数十カ所しかありません。関東の神社では春日神社のみ醸造が認められている神社です」と言います。
鹿行ナビ
関東で当社だけ!というのはスゴイですね。どぶろくの仕込みは11月1日、祭り前日の22日には税務署の検査を受け、村内の長老の口利きを行っているのだとか。
明治以前は8石8斗8枡のどぶろくを作っていたそうですが、いまは約1石とのこと。また当日には以下のような準備をしています。現在もすべて実施しているか不明ですが、細部まで決まりがあるようですね。
翌二十二日例祭当日は、早朝より神前に山海の珍味を供える。
第一の神餞として、御神酒のどぶろくを四斗樽に満たし、周囲に注連縄を張り巡らせて供える。また、第二の神儀として、粕香味という酒粕で大根の葉を漬けたもの。第三の神餞として、御爨上という玄米を炊き上げた御飯。第四の神供として、御粂ぎという米粉の団子七個。以上四種は欠かすことのできないものとされている。
どぶろくは、午前十時ころから一般の参拝者に振舞われ、終日多くの人々がどぶろくをご馳走になる。
古くは祭典を丑の刻(午前二時)に行っていたが、昭和四十年代に改め、当番の引き継ぎは午後五時、当番組内のしかるべき家において、宮司、総代立ち会いの下に行われ、終って直会の儀を行う。
午後九時、新しい当番の組内の肝入りにより、社殿において例祭が執行される。
古儀においては、「吐普加身依身多女」の呪言が唱えられ、次いで種蒔、苗取、御昼食、日植という神事が行われていた。
種蒔は、総代の一人が小さな袋(俵)三十六個に種級を入れたのを田の中と見物人に投げる。苗取は宮司が神の小枝を数本拾い、それを早苗に見立てて田植の所作をする。
御昼食は総代二人が田の中に飯櫃を運び出し、飯を盛った椀を田の中に入れようとすると、見物人が泥をつかんで櫃の中に投げる。泥が櫃の中に多く入った年は豊作とされる。
現在の祭典は神社祭式によって行われ、このような農耕所作は伴わなくなったが、どぶろく醸造をはじめ特殊神餞は変わることなく続けられている。
茨城の神事|編:茨城県神社庁
引用文の最後にあるように、書かれていることは現在も続けられているわけではありません。おそらく呪術的な要素が強く、現代の神社祭式に見合わないので淘汰されたのだと思います。
ちょっと惜しい気もしますが、神道が広く親しまれるためにはこうした判断も必要だったのでしょう。
例祭の謎に迫る
ここから先は非常にややこしい話になるので、占いとか神道の呪言に興味のある方だけ読んでください。どぶろく祭りについて勝手に研究していきます。
先の引用文でわたしが興味を持ったのは「吐普加身依身多女」です。それについて神社本庁が監修した『神社のいろは用語集 祭祀編』には次のように書かれています。
中世以来、一種の「祓詞」として信仰され、また、呪術的な神秘の語句として重視された言葉のこと。上代から亀卜に関して用いられた呪的要語と考えられている。「とおかみえみため」の表記には、さまざまな漢字があてられるが、「吐普(菩)加美依身多女」が一般的である。
吉田家の唯一神道などでは、「吐普加身依身多女、寒言神尊利根陀見、波羅伊玉意喜余目出玉」という「三種大祓」の主要語句として用いられた。近世には、神拝の詞、あるいは、神恩を蒙る辞句として解説され、とくに重視された。
神社のいろは用語集 祭祀編|編:茨城県神社庁
上記の「亀卜」は亀の甲羅を使った占いのことです。「とおかみえみため」は諸流によってさまざまな考え方があったそうですが、次第に統一されていき、八卦や陰陽五行の思想が影響していることがわかっています。
八卦と陰陽五行は世の中をどうやって見るか、という哲学です。詳細は省きますが、ざっくりいえば八卦は8つ(後に紹介)に、陰陽説は2つ(陰と陽)、五行説は5つ(木火土金水)の要素によって世の中が成り立つとします。
じつは当社の祭りと占いの関係についてはわたしも考えていました。特に旧暦7月28日(神社境内の説明では7月8日に「8石8斗8枡」のどぶろくが奉じられることや、「相賀八郷」の総社であったこと、つまり頻繁に8と関連することがとても気になったのです。
近世の占いといえば八卦の出典である「易」です。中国で編纂された『易経』に由来する占いで、その中で8といえば「八白土星」です。これは八卦と九星、それに五行説が組み合わさった九星術で扱われる星のひとつです。
星といっても実際に空に見える星とは区別してください。この星は方位では東北、すなわち鬼門である丑寅を示します。
引用文の「とおかみえみため」に続く「かんごんしんそんりこんだけん」は八卦の「坎」「艮」「震」「巽」「離」「坤」「兌」「乾」に一致します。無関係であるという意見もありますが、この並びは八卦を四方四隅に並べた順番と完全に一致しますから、間違いなく易に由来していると思います。
また、八白土星は五行説における五気では土気が割り当てられており、土気には金気を生じさせる性質があります。金気の方位(正位)は西、すなわち酉の方位です。どぶろく祭りは「酉の月(旧暦7月)」に「酒」を作るわけですから、それぞれ「酉」に関連しているのです。これって偶然でしょうか。
さらに青沼春日神社は社殿が西南を向いていることも気になります。おそらく前述した東北(丑寅)に鎮座していることを意味しているのでしょう。
これにも説明が必要ですね。「君子南面す」というように、中華皇帝や天皇のように特に尊い存在は南を向くことが相応しいとされています。そして同時に君子の拠点は北方であるとも。これはあるべき方位に背を向けることでその方位にいることを示しています。もし北にいるはずの人が北を向いていたら、自分の居場所よりも北があることになります。だから背を向けて極地であることを意味するのです。
さらに境内の石碑を読むとかつては今より広大な境内を持ち、そこには多くの松が植えられていたとか。松は丑寅のシンボルと見る考え方があります。それは松が「木」と「公」の字から成り、「公」の旧字が「㒶」であることから八白を意味する木とされるのです。
祭りが8日に関すること、社殿が西南を向いていること、境内に多くの松があったこと。これらから導き出されるのは八白土星に通じる信仰があったということではないでしょうか。御祭神=土気の性質です。
当社の本殿は赤く染められています。それが昭和期の再建以前もそうだったのなら、五行説の火生土の法則、つまり火気は土気を生じさせる法則を利用して御祭神を降臨させる意図があったのかもしれません。
土気は木剋土といって、木気によって弱められる性質があります。しかし木気は金剋木といって金気に弱い。そこで金気がもっとも強くなる酉の月にどぶろく祭りを執り行うことにより木気を弱め、御祭神のはたらきを強める。そんな理屈で祭りが催されたのではないでしょうか。当社が7月8日(あるいは28日)に創建した伝説とも整合性がとれるので、理屈としては成り立つのではないかと思います。
ただし、こうした憶測とは別に地元の方の考えも尊重するべきでしょう。取材を行った『鹿行ナビ』には次のようにあります。
春日神社のある青沼地区では昔からどぶろくを作っていたそうですが、当時、どぶろくは一日の疲れを癒す飲みものとして愛され、酒蔵がなかったころには、山に穴を掘ってわざわざ蓄えていたくらい貴重なものだったと伝えられています。“そのありがたみをいつまでも忘れないようにと、お祭りでどぶろくが奉られるようになった”ともいわれています。
神社が作る濁り酒!春日神社の「どぶろく祭り」|鹿行ナビ
八白は「山」の方位ですから「山に穴を掘って」の部分は個人的にたいへん気になるのですが、人の話を素直に聞くという姿勢を忘れては現実から遠ざかるばかりです。ぜひ上記も覚えておいてくださいね!
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・青沼春日神社の御祭神はタケミカヅチ。鹿島神宮の鎮座する鹿行で鹿島社でないのは珍しい
・どぶろく祭りは勤労感謝の日に開催。参拝者には無料でどぶろくが振る舞われる
・祭りでは占いのための呪言が唱えられていた(今も?)。
参考文献
茨城の神事|茨城県神社庁
茨城県神社誌|茨城県神社庁
茨城県の地名|編:平凡社
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。