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いまや水戸でもっとも有名な歴史的な観光地といえば弘道館ではないでしょうか。江戸時代に水戸藩主である徳川斉昭公によって創設された藩校です。
水戸城に隣接し、当時の姿に復元されていますからとても趣があって歴史好きにはたまらない場所です。弘道館についてはこのブログが紹介するまでもなく、多くの方がご存知のことでしょう。
そこで今回は、ふつうの人があまり考えないであろう視点から弘道館を紹介してみたいと思います。それは儒教思想で考える弘道館の造型です。特に「左近の桜」に興味のある方向けにしてみました。
端的に申しますと、弘道館内の建物などの配置は儒教の易や五行説を基に造られたと推理しました。なんのこっちゃ分からんと思いますが、とりあえず弘道館について詳しく、怪しげに学べる内容になっているはずです。
この記事はわたしが何気なく八卦堂を眺めていてひらめいたことをまとめたものです。なるべく根拠を載せるようにしていますが、すべてに確証を持って述べているわけではありませんので取り扱いにはご注意ください。
左近の桜とは
弘道館の「左近の桜」といえば正庁前に植えられた桜のこと。弘道館は江戸時代に水戸藩が創設した日本最大級の藩校で正庁はいわゆる校舎です。
大変由緒ある桜でして観光いばらきでは次のように説明されています。
左近の桜
玄関前の左近の桜は、斉昭夫人登美宮吉子が水戸家に御降嫁された時に仁孝天皇から賜わったもので、江戸小石川の水戸藩邸に植えられていたものを弘道館開設の際に移植されました。現在の桜は3代目で、昭和38年(1963年)に弘道館の修理工事が完了したのを記念して宮内庁からゆかりの苗木をいただいて植えられたものです。山桜で4月上旬に美しい花を咲かせます。
弘道館/観光いばらき
水戸藩の左近の桜のもとを辿れば天皇の私的空間である内裏の南庭に植えられた左近の桜です。天皇および皇室ゆかりの桜ですから、日本人、特に尊王思想が強い水戸藩士にとって至高の桜といえるでしょう。
また、桜を賜った吉子夫人は江戸の水戸藩屋敷の石碑に自らの想いを遺しています。『水戸桜川千本桜プロジェクト』が大意をまとめてくださっているので一部引用します。
(大意)
勤王の心あつい斉昭公のもとへ嫁いだが、嫁ぐ前の天保二年に御所に召され仁孝天皇自ら、嫁ぐ際の土産とせよと御所の近衛の陣の近くにある左近の桜・右近の橘の株分けをくだされ、光格上皇よりも「花のひも」と書かれた薫物の入った袋を下された。天皇からは婚家水戸家の栄をいのるとのお言葉までいただいた。左近衛中将の官位にある斉昭公の勤王の心が届いたかと思うと感激する。私が携えてはるか東国で植えるということは、いにしえの坂上瀧守(左近衛少将)の左近の桜復元の故事が思い出される・・・そんな大意ではないかと思います。
水戸桜川千本桜プロジェクト(2019年10月7日)
石碑は徳川ミュージアムが管理しており非公開です。リンク先では原文とその背景についても詳しくご紹介されていますので、さらに深く知りたい方はぜひご覧ください。
訪れたのは4月10日。まさに万朶の桜と言わんばかりに満開。風に揺られて枝がしなり、はらりはらりと花びらが舞っておりました。歴代の天皇陛下も親しみになられたと思うとありがたいやら恐れ多いやら。
じつは混雑するかと思って満開期は避けておりました。近年は周辺の駐車場も整備されて足を運びやすくなっていますから、茨城が誇る最高の桜のひとつとして多くの方にご覧いただきたいですね。
お写真が好きな方は令和2年に再建された大手門などと合わせて撮ってみてはいかがでしょう。左近の桜の撮影については『茨城県の桜』が大変参考になるかと思います。
さて、このような由緒と景観から左近の桜の素晴らしさは誰もが認めるところですが、弘道館に植えられた理由についてはどのようなことが考えられるでしょうか。
「弘道館は水戸藩にとって重要な場所だから、重要な桜を植えた」それとも「紫宸殿の左近の桜の配置をマネた」でしょうか。おそらくそれを明確に示す文献は発見されていないか存在しないため、もしかしたら将来に渡っても真実が語られることはないかもしれません。
しかし、そこに大きな意味があったことは間違いありませんから、あれやこれやと考えてみるのが歴史の楽しみ方というもの。そんなわけで水戸藩と儒教思想に触れながら、これまでと一味違った左近の桜に気づいていただけたら幸いです。
弘道館とは
左近の桜は弘道館の一部です。植樹された理由を検討するためには弘道館そのものについての理解も必要でしょう。
弘道館は第九代水戸藩主である徳川斉昭公によって創設されました。建設工事は天保11年(1840年)にはじまり、翌12年に完成。同年に仮開館を迎え、安政4年(1857年)に本開館となりました。本開館まで15年以上かかったのは主に鹿島神社と孔子廟の完成に時間を要したためといわれています。
同館の創設は斉昭公の藩政改革の一端であり、天保の飢饉による国内の不況や先代から続く藩政問題、さらには「鎖国」を続ける日本に対してイギリスやロシアなどが干渉してくる国際情勢などが背景にありました。
「ペリー来航」は嘉永6年(1853年)のことですが、それ以前からフェートン号事件(1808年)や大津事件(1823年)などがあって幕府は異国船打払令(1825年)を発令。緒方洪庵の適塾(適々斎塾)が開かれたのは天保8年(1837年)ですから、知識人であればだれもが危機感を持つ時代です。
本来は征夷大将軍を筆頭に国内がまとまり外国と新たな関係を築くべきでしたが、残念ながら当時の幕府にそれをする力はありませんでした。そうした状況下で水戸藩は独自に新たな人材を見つけ育てる環境を生み出し、国難に立ち向かおうとしたわけです。
こうした水戸藩の精神は『弘道館記』として天保8年(1837年)にまとめられました。草案は藤田東湖、書と篆額は斉昭公の手によります。同記は弘道館の精神的支柱であり、また物理的中心にも置かれました。
その他、弘道館および敷地内に関することは観光いばらきが充実していますので、ぜひご参照ください。
弘道館創設の背景はこちら
八卦堂と易
弘道館記はかつて敷地の中心に置かれていました。場所は今も変わりませんが、開発によって敷地が様変わりしているため印象は薄いかもしれません。
また、同記は八卦堂によって覆われ保護されているため特別な機会でなければ拝観できません。同記の重要性は疑う余地がありませんが、八卦堂の方はどうでしょうか。同様に重要であるとわたしは思います。
八卦堂は一般的に次のように説明されています。
八卦堂
建学の精神の象徴である弘道館記碑を納めた八卦堂は、藩校当時は、敷地の中央に位置していました。
八卦堂のそれぞれの軒には、万物変化の相を示す易の算木(さんぎ)を配し、その中に万古不動の日本の道を説いた弘道館記の碑を建てたことは、斉昭の絶妙な発想であるといえます。昭和の戦災で、中の弘道館記碑を守りながら八卦堂は焼け、昭和28年(1953年)に復元されました。
※八卦堂内は通常非公開です。
弘道館/観光いばらき
「易」に関する二つ目の文章は難解ですが、これこそ「八卦」そのものに触れる重要な内容なのでわたしなりに解説していきたいと思います。
ただし、非常に古い時代のことなので明確にはわかりません。それに多少無理してわかりやすくしてますので、歴史や用語についてはすべて一説あるいは参考程度にとどめてくださいね。
「易」は古代中国で生まれた占いです。古すぎて起源は定かでありませんが、五、六千年前に成立したとされ、現代でも使われる後天易は周の時代に成立したといわれます。つまり少なく見積もっても三千年近い歴史があります。易は伏義によって生まれたとか、先天易もあるとか多々ありますが、ここではなるべく要点のみお伝えします。
この場合の「占い」は、平たく言えば「未来予期」です。易は「万物はたえず一定の法則で変化を続ける」と考えますので、占いの結果によって「今」を把握することで「未来」を予期できるというわけです。もちろん具体的な事象ではなく流れとか方向性に限られます。
だからといって水戸藩が占いをしていたとか信じていたとか言いたいのではありません。易にはさまざまな哲学的背景があり、日本ではそれらを儒教や朱子学(朱子による儒教文献の新解釈)の一部として学んでいました。「神儒一致」を掲げ、学問において先進的な水戸藩は易に対する深い理解があったと思うのです。
なお、発祥の地にして本場ともいえる中国では易を『易経』としてまとめて五経の筆頭としました。五経は四書と合わせて『四書五経』と呼ばれ、科挙(公務員試験)の受験科目でした。中国の文人であれば知って然るべきであり、弘道館でも学ばれています。幕末の水戸藩士の議論に影響していることは間違いありません。
八卦堂は儒教のシンボルであり、弘道館記の精神と合わせて神儒一致を示していると考えられます。そして八卦堂は単なるシンボルにとどまらず、その「卦」が左近の桜をはじめとした敷地の造型に通じているのではと思います。というわけで続いて八卦(はっか、とも読む)を紹介します。
ちなみに、「易者」は易で占う人のことで、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」とか言いながら(わたしの勝手な想像)、引用文にある算木や筮竹で占います。筮竹はイラストの男性が持っている細長い棒の束のことです。
八卦の概要
八卦堂の軒下には算木を使った八卦の「卦」が設置されています。算木の真っ直ぐな横棒は「爻」と呼ばれ、中央に切れ目がないものを陽爻、あるものを陰爻といいます。それを三本組み合わせて卦を示すのです。
写真だと少しわかりにくいのでイラストを用意しました。陽爻は剛、陰爻は柔というように相反する性質を持っています。爻の形は男女のシンボルに由来するとか色々な説があります。
八卦を発明したとされる伏義は万物の相対的原理を発見し、それを陰陽として捉え記号化したといわれます。要はあらゆる物事には二面性があってそれを形にしたということです。
爻は組み合わせることで陰陽をより具体的に表現できます。爻が二つあれば老少に分けられ四つの卦に、三つなら八つの卦が表現できて八卦の完成です。八卦を使えば万物を表現できることになっています。
また、八卦はそれぞれが天、地、山、沢(川)などの自然を象徴するものとされました。八卦をよくよく眺めてみるとたしかになにかに見えてくるのです。象形文字みたいな感じですね。
たとえば先程の「震」の卦は自然の「雷」を意味します。陽は剛(硬い)、陰は柔らかい性質がありますから、硬い地面の上に柔らかいなにかがあると見立てるのです。それをなにか震える様子であったり、落雷と捉えます。
このように卦が見立てたり意味するものを「象」といいます。ひとつの漢字に複数の意味があるように、卦もまた複数の象を持っています。以下は代表的な象を図示したものです。
ここでそれぞれの象を覚える必要はありません。ただし、八卦は五気(木火土金水)と結びつき、「五行説」なるものと密接な関係にあることは覚えておいてください。
八卦から自然を連想するようになったのは、自然が当時の人々の生活に大きく影響したためといわれます。そしてさらにそれぞれの卦の意味を読み解こうとするうちに占いとしての易が誕生するのです。
なにやら神秘的な話が続きましたが、これらが単なる空想で終わらないことは『偕楽園記』が示しています。観光いばらきに大意があるので一部引用します。
〔偕樂園記〕
天には太陽と月があります。地には山と川があります。このように地上のあらゆる物は陰陽の組み合わせでつくられています。
陰陽によってあらゆる生き物が生活を送っているのです。
弓で言えば、張って緩める。馬で言えば、走って止まる。このような静と動、陰と陽の組み合わせが自然の摂理なのです。
万物の霊長たる人間は、陰陽のバランスを整えることで、聖人君子となることもあれば、つまらない人間になることもあります。これは論語にも書かれている昔からの真理です。
ですから、よい心がけをもって自己研鑽につとめ、武芸文芸、その他の芸能の修行を行い職務に励むことで聖人君子となりましょう。
偕楽園/観光いばらき
以上の文章は斉昭公が自ら作りました。万物を相対的に捉えたり、陰陽の組み合わせとするのは易の思想そのものといえます。
陰陽説と捉えることも可能ですが、易を知らずに陰陽説だけ学んだとはちょっと考えにくいですね。八卦堂の「八卦」は陰陽説を発展させたものだからです。陰陽説よりも高度な理解があったことは間違いないでしょう。
『偕楽園記』の原文や全文の現代語訳が知りたい方は『観光いばらき』をご覧ください。
孔子廟と鬼門
水戸藩は易を学び、八卦堂を建てました。八卦堂には文字通り八卦が算木によって示されているわけですが、現地で確認したところ算木は本来八卦が示すべき方位に向けられていました。
たとえば先程紹介した「震」は東(真東)を向き、「坎」は北、「離」は南という具合です。八卦堂が弘道館の敷地の中央にあり、堂の算木が方位を示しているということは、敷地内の造型は易の思想に基づいていると考えられないでしょうか。各方位に易として配置がされているということです。
八卦堂は戦中に焼失したので位置や向きが現在と同じか疑問ですが、明治32年(1899年)に描かれた『弘道館全図』や『旧水戸藩弘道館之図』(作者:年代不明)を参照したところほぼ同じとしてよいかと思います。気になる方はリンク先でチェックしてみてくださいね。
早速、左近の桜を。。と行きたいのですが、予備知識が必要なので孔子廟から検討していきましょう。同廟は以下のように説明されています。
孔子廟
孔子廟は、弘道館建学の主旨のひとつである「神儒一致」の教義にもとづいて、儒学の祖である孔子を祀るために建てられたものです。廟の構造は、大成殿(中国の孔子廟の本殿)を模した入母屋造り瓦葺で、屋上には2種類の架空の動物(鬼犾頭・鬼龍子)の像を置いた特異なもので、孔子の生地(中国山東省曲阜市)の方向(西)を向いています。内部は、土間で高く設けられた室内に孔子神位の木牌を安置しています。
弘道館は、天保12年(1841年)に仮開館し、安政4年(1857年)に孔子廟には孔子神位の安置、鹿島神社には鹿島神宮からの分祀遷座がなされたことにより、本開館式が挙行されました。
孔子廟は、昭和20年(1945年)8月2日の戦災で戟門(げきもん)と左右の土塀を残して焼失し、昭和45年に復元されました。
※孔子廟内は通常非公開です。
弘道館/観光いばらき
孔子は弟子によって言説をまとめた『論語』で知られます。そしてなんといっても易の一部(十翼と呼ばれる易の解説)を書いたとされることが重要です。まずは孔子廟の位置をもとに意味を考えていきます。
なお、館内の配置の測定に関してはmapli.netを利用しています。Google Maps上の二点を指定すれば、その角度と距離が測定できる仕様です。点のとり方によって結果が変化するので気になる方は確認にご利用ください。
さて、現在の孔子廟は八卦堂の北から東にかけて約50度に位置しています。古地図で見ると46度くらいですね。八卦では四方(東西南北)を30度、四隅(東北・東南・西南・西北)を60度と割り当てるので、北から15〜75度は艮(東北)にあたり、八卦堂はその範囲に含まれています。
艮はいわゆる鬼門です。字面は不気味ですしネガティブな印象かと思いますが、悪いというより変化が生まれやすい方位とされます。平穏と安定を望む為政者にとっては注意すべき方位ということですね。
鬼門にあるものとして有名なのは比叡山(都の東北)、茨城であれば筑波山(江戸の東北)でしょうか。艮の象には「山」があるため、東北の山となると法則を体現する存在として特に注意深く扱われたと考えられます。
なぜ艮が山なのかは、卦をよく観察するとわかります。明るい天に向ってなにかが突き上げられている形が艮であり、「高い」や「長い」といった特性であれば山でなくても艮の造型とされる場合があります。
ちなみに艮は「うしとら」とも読み、丑寅と同じ方位を指します。スマホやパソコンでも変換されますので試してみてください。巽=辰巳(東南)、乾=戌亥(西北)、坤=未申(西南)も同様です。
孔子廟はふだん非公開で中を見れるのは年に1〜2度程度。弘道館の公式Tiwtter(@kodokan_iba)で告知されると思いますので気になる方はフォローしておきましょう。
孔子廟の屋根に置かれた鬼犾頭と鬼龍子はいみじくも鬼の名を冠しており、鬼門であることを暗示しているよう。
両像は廟の焼失後に設置されたものですが、廟の焼け跡から同様の鬼龍子が発見されており、弘道館の展示室で拝観できます(撮影禁止)。おそらく当初から鬼犾頭と合わせて置かれていたのでしょう。
昭和40年(1965年)に模写された弘道館鳥瞰図にもそれらしき像が描かれています。
鬼犾頭は頭から水を噴射しており、鬼龍子は虎に似た霊獣という設定。虎(寅)は十二支に数えられ五行説では木気に配当されることから孔子廟は水気と木気に挟まれた鬼門に位置するといえます。
鬼犾頭が龍の胴体を持つとことや鬼龍子が仁獣とされることも水気と木気を示しており、両像が鬼門の造型である可能性は濃厚です。五行説については後ほど紹介するので上記がよくわからなくてもご安心ください。
ところで、当廟は「大成殿を模した」とのことですが、その代表とも言える湯島聖堂の大成殿とは形がずいぶん違うようです。大成殿にも色々あるということでしょうか。それともこの形には特別な意味があるとか。
以上のようなことから孔子廟は儒教の祖として尊い存在を祀る場所でありながら、いわゆる鬼門除けであったと推理します。当時の水戸藩に延暦寺のような寺院の建立は考えられませんので、孔子の霊威に頼る発想をしたのではないでしょうか。鬼門自体が儒教発祥と考えればこれよりふさわしいものはありません。
鹿島神社と正庁
弘道館は学生の能力(学力と体力)と同じくらい精神を大切にしました。孔子廟と鹿島神社の完成によって本開館としたことはその証といえるでしょう。
それでは鹿島神社についてはどのように考えていたのでしょうか。これも易と深い関係があると思います。同社の基本情報につきましては過去記事を参考にしていただくとして、ここでは易とのつながりについて検討します。
まず確認しておきたいのはその立地。現在の鹿島神社は孔子廟の東から南にかけて約47度です。古地図だと約48度ですからほぼ同じ。易では巽の方位ですが、これにはどのような意味があるのでしょうか。
鹿島神社のご祭神といえば武甕槌大神です。同神は常陸国の一宮である鹿島神宮から分霊されました。「鹿島(鹿嶋)」と社号にあればほぼ例外なく同神をお祀りしています。
武甕槌がどのような神であるかは茨城県民であればピンときそうですね。武神、雷神、地震を起こすナマズの頭を押さえつけているなど。近年は運動全般に神徳があるとされていて鹿島アントラーズが祈願しています。
以上のようなイメージを踏まえて八卦を眺めてみるとなんとなく関係ありそうな卦が見つかるはずです。「震」は地震に通じ、動や雷の象は運動に関する神徳と雷神の神格を意味すると考えられないでしょうか。
易と武甕槌の関係はここでは深掘しませんが、重要なのは「震」と武甕槌が通じているのであれば、同神を祀るにふさわしい方位は「震」が示す東ということ。易の思想に従えば鹿島神社は敷地の東にあるべきです。
しかし、地図を見れば分かる通り弘道館の敷地は本丸のある東南から西北に伸びており、東にはほとんどスペースがありません。それに弘道館は城内の藩校であり藩主が実際に訪れる場所ですから、その機能の中枢にあたる正庁は城(水戸城)から最短距離になる東南に置く必要があります。もちろん玄関は城に向けます。
すると東には正庁があるため鹿島神社は行き場を失います。そこで生まれた発想が震と同じ木気に属す巽だったのではないでしょうか。震はベスト、巽はベターです。。。と言われても木気なんてわかりませんよね。
木気は五行説の五気のひとつです。五行説を知ると日本の歴史や文化をより深く考察できるようになりますので軽く解説しておきます。
五行説で読み解く武甕槌
五行説は易と同じく古代中国発祥の哲学です。易が八卦によって万物を分類するに対して五行説は木・火・土・金・水・の五気によってそれを行います。上の画像は五行説で特によく使われる配当を図示しています。
五気は易の八卦と同じように陰陽のバランスによって誕生しましたので、成立の過程は違えど根本は同じです。大きく違うところと言えば五行説はいくつもの法則によって気同士の関係を説明していることですね。ここではその法則について詳しく説明しませんが、ひとまず2つの法則だけ覚えておいてください。
ひとつは「気は同じ気で集まることで強化される」。人間も仲間同士で集まると本来より強い力が発揮できますよね。覚えなくていいですが、専門用語で「比和」といいます。
もうひとつは「相剋」です。相剋はいわば気の優劣関係で「Aの気はBの気に対して優位」といった法則があります。たとえば先程登場した木気は金気に対して劣位(対して弱い)となっています。
さて、そのような法則があるとなれば、鬼門除けには鬼門の方位に強い気を配すればよいとの発想が生まれます。鬼門は東北ですから土気の方位。土気に強いのは木気です。
木気は五気の中で唯一の生命。動物や植物などの生命全般、風や雷など震えるものや動くものを司ります。また、「誕生」や「顕現」も木気の持つ重要な力です。
武甕槌は木気に属するのですから、鬼門除けには最適。また、武甕槌が「震」の化身であるならば、鹿島神宮の社殿が北面するのは東北(鬼門)を向いていることになります。
ただし、弘道館の現在の鹿島神社は北面していますが、再建前は西から北にかけて約70度に向けられています。これは亥の方角を意味し、木気がもっとも強化される「木気の三合」の法則を意識していると考えられます。
三合についてはやや高度な内容なので興味のある方は別記事を参考にしてください。法則自体は紀元前に成立した『淮南子』にも記載されています。
ところで、前述した孔子廟は西向きです。西には孔子の生誕地があるとのことですが。。わたしは孔子廟の西面は相対的に東に位置することを意味していると思います。
つまり、孔子廟は建物の向きによって鹿島神社と同じ木気としての属性を与えられていると思うのです。鹿島神社を孔子廟の位置に建てても良かったのですが、気の配当を考えると現在地が妥当と判断したのでしょう。
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推古天皇11年(603年)に聖徳太子によって定められたという冠位十二階には五行思想が明確に見られるため、五行説が日本に伝わったのはそれ以前、おそらく仏教伝来と同じ頃といわれています。
さまざまな色合いの桜があるという意味で「五色桜」という言葉があります。五色は白・墨(黒)・赤、緑、黄を指すと言われ、五行説の五色と一致します。五行説の五色はすべての色を意味するので、五色桜には「すべての品種が揃っている」のニュアンスがあるのかもしれません。(「五色」の発端は新聞記者)
左近の桜は「東」の象徴
それでは改めて水戸藩の意図を知るべく左近の桜について検討していきましょう。
現在、左近の桜は八卦堂の東から南に約14度、古地図だと約6度に位置しています。地図上ではずいぶん動いているように見えますので、昭和の植樹の際はあまり気にしなかったのかもしれませんね。
いずれにせよ桜の植えられた方位は東です。東は文化的にも易・五行説的にも桜の正位とされてきました。その理由は五行説の配当表をご覧いただければ一目瞭然です。
五行の配当は季節や十二支、暦も例外ではなく、五行説によれば桜が咲く「春」は木気に配当。十二支では寅・卯・辰の三支、暦では旧暦1月から3月が木気です。お正月に「新春」の言葉が飛び交うのは旧暦の名残です。
そして木気および春がもっとも盛んになるとされるのが季節の中央。つまり旧暦2月(卯月)です。その2月を方位に置き換えると東(真東)にあたるので、東の桜といえば美しさにとどまらない特別な意味を持つのです。
話を整理すると桜は春の象徴であり、春の盛りといえば旧暦2月、旧暦2月は五行説の配当により東を意味します。この関係が古くから知られていたことは数々の和歌から読み取れます。
たとえば『古今和歌集』(10世紀成立)で詠まれる「佐保姫」です。佐保姫は大和国(現在の奈良県)の佐保山を神格化した女神で春の季語としてたびたび登場します。これは佐保山が奈良の都の東にあることに由来します。
佐保姫の霞の衣ぬきをうすみ花の錦をたちやかさねむ
後鳥羽院御集
上皇(後鳥羽院)も詠むのですから広く知られていたと考えてよいかと思います。それに上皇であっても「神」を『古事記』や『日本書紀』の典拠にこだわらないことが分かって面白いですね。
また、鎌倉時代の僧侶であり数々の歌を残した西行は次の歌を詠んでいます。
ねがわくは 花のしたにて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ
如月は旧暦2月、望月は満月(十五夜)を迎える日なので15日です。旧暦は太陰暦といって月齢で暦を数えます。1ヶ月は平均で約29.5日なので満月はその中間、つまりだいたい15日目に迎えるのです。
一般的には桜が見頃を迎える旧暦2月15日に最期を迎えたいという意味とされますが、旧暦を現在の太陽暦に置き換えると毎年決まった日付にならないので見頃とは限りません。中国の春節が年ごとに違うのと同じです。
そもそも桜は品種や地域によって見頃が異なりますから、この日取りは現実の桜ではなく五行説に基づいて見頃を詠んだのでしょう。詠み手の西行だけでなく聞き手にも五行の理解があったとうかがえます。
おさらいすると『佐保姫』のある歌は東=春、西行の歌は桜(春)の最盛期=卯月(旧暦2月)を示しています。桜が春の象徴ということは東の象徴でもあるのです。
桜と東が結びつくとなると、はるか東国に嫁ぐ吉子夫人が仁孝天皇から賜った左近の桜には天皇の水戸家に対する想いが形として示されているといえるでしょう。
「気は同じ気で集まることで強化される」。つまり木気の象徴たる桜が木気の正位である東に渡ることで双方とも栄える。仁孝天皇は東の水戸家が栄えることを当時の哲学を通じて願われたのだと思います。
また、光格上皇からは「花のひも」と書かれた薫物を賜ったとのことですが、「ひも」は花弁を結ぶもの(下紐)とされるので薫物は「花のつぼみ」と解されます。「つぼみ」を漢字にすると「蕾」。八卦の震の象である「雷」が脚にあるので「東」の造型です。上皇もまた易の思想に基づいて水戸家の繁栄を願われたのでしょう。
万朶の桜
ところで、水戸藩士の藤田東湖の『正気の歌』には「万朶の桜」の表現が見えます。「万朶」は日常であまり目にしない言葉ですよね。一般的には万=あまた(たくさん)、朶=花のついた枝で、満開の桜とされます。
その解釈には大賛成しますが、「朶」については白川静の『字通』で次のように説明されています。
【象形】枝先の花が垂れて動く形。
字通/白川静
象形とあるので実際の花を見て生み出された字なのでしょう。「垂れて動く」とありますが、植物は勝手に動きませんから、風が吹いていると考えられます。
「動」と「風」は八卦の「震」と「巽」の象です。いずれも木気ですから、同じ木気である桜の生命力が溢れんばかりであることを表現しているように受け取れます。これもまた「神儒一致」で奥深いですね。
南庭の左近の桜も「東」
今度は内裏の紫宸殿前の左近の桜を見ていきます。上の画像は平安京内裏の配置図。紫宸殿は内裏全体の南に位置しており、南面する天皇の前に右近の橘と左近の桜が植えられています。
これまで桜は春、そして東の象徴だと述べました。それに従って桜が東に位置すると考えると、右近の橘は西、紫宸殿は北に位置します。そう捉えてよいのか検討してみましょう。
右近の橘の「橘」の字は単独であれば果実のことで秋(晩秋)の季語です。秋のほかに果実が固くて丸いことや白い花をつけることなどは金気の要素。金気は金属に通じる気で配当される方位は「西」です。橘より西にふさわしい植物はあると思いますが、歴史的な経緯があってのことでしょう。
なお、金気たる橘は木気の桜と相剋の関係にあります。仁孝天皇が左近の桜と合わせて吉子夫人にお与えになったのは盛んになりすぎた気を調製する意味があったのかもしれません。
次に紫宸殿です。紫宸殿の「紫」と「宸」はいずれも太極を意味する字です。陰陽は太極から分かれて生まれたとされますので太極はすべてのはじまりにして究極の存在。太極の方位は定めようがありませんが、古代中国の天文学で太極と北極星が同一視されたことなどもあって強いて定めるなら「北」となりました。
「天皇」の名称も北極星を神格化した「天皇大帝」に由来すると言われ、天皇と北は密接な関係です。内裏は都の北に位置し、古代の遷都のほとんどは北に向けて行われました。
藤原京→平城京(710年)→長岡京(784年)→平安京(794年)はすべて北。それ以前の遷都も南北に限られ、大嘗祭が行われる11月(子月)も五行説では「北」に配当。これらは単なる偶然とは言い難い事実です。
天皇と北との関係は奥深いものがあるのでこれより踏み込みませんが、ひとまず北は天皇の正位で紫宸殿はそのことを意味する名称だとご承知おきください。
左近の桜が東にふさわしい理由は前述のとおりですが、桜が植えられたのは仁明天皇の御代(834〜847年)でそれ以前は梅でした。梅も桜と同様に春の植物とされるので東に位置することは不思議ではありません。
しかし、それならなぜ桜に代わったのかという疑問が残ります。その答えはおそらく「桜のほうがふさわしいから」ですが、梅は内裏の別の場所に植えられていますので同時代に思想的進化があったのかもしれません。
南庭には西、北、東の造型が常設しています。欠けているのは南と中央、五気でいえば火気と土気です。私見ですが、その二気は南庭で行われる儀式の際に姿を見せるのでしょう。土気はおそらく「人間」です。
南庭の意図はともかくとして、易・五行の思想は日本の中枢である天皇や内裏にも見られます。そもそも「天皇」「内裏」「紫宸殿」といった言葉は儒教なしでは説明できません。そうした意味では日本は古代から「神儒一致」しています。
水戸藩にとっての儒教
幕末の水戸藩では中国や儒教に対する批判が強烈な一方で易・五行説のような哲学は大いに取り入れているように見えます。この矛盾ともいえる違いについてはなかなか理解が難しいところですね。
しかし、水戸藩にとって重要なのは日本の国柄(当時は國體という言葉)として認められるか否かであって、天皇や皇室で長く続けてきたことを否定するわけはないと思うのです。
斉昭公の政策は仁孝天皇と光格上皇の事績(学問の奨励、教育機関の創設、飢餓の救済)との親和性が見られます。また、開園当初の偕楽園では曲水の宴が行われるなど「尊王」の想いは随所に現れています。
弘道館の造型や内裏に倣った左近の桜の扱いなどはその一端ではないでしょうか。こうした説は文献に残っていませんが、それは内裏の左近の桜も同じであり、なんの理由もないとするのは却って不自然かと思います。
まとめ
弘道館の敷地の中心に八卦堂があることから、易の思想に基づいて館内が造られたと推理してみました。
ただ、ここで本当にお伝えしたいのは単に儒教の影響が見られるということではなくて、水戸藩の「尊王」が館内の造型に現れていると考えられることです。
天皇は生涯を通じて国民の幸福を祈る存在です。「尊王」と言うのであればそうした姿に従うのが道理であって、斉昭公を中心とした水戸藩の考えも本来はそちらを向いていたのではないでしょうか。
今回は弘道館を紹介しましたが、弘道館と「一張一弛」の関係の偕楽園も同じような意図が見られます。土地が広い偕楽園のほうがもっとシンプルでわかりやすいかと思いますのでぜひ挑戦してみてくださいね。
それとせっかく弘道館や偕楽園を巡るなら藩史を知っておくとより楽しめます。読書もしつつお楽しみください!
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