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- 由緒、ご本尊
- 特におすすめの参拝の季節
- 御朱印のいただき方
茨城県には弘経寺が3箇所にあるのをご存知ですか?三寺は密接な関係にあり、その中でも飯沼(常総市)と結城は特別な間柄。江戸幕府とも縁があるんです。
特に有名なのは飯沼かと思いますが、結城も風情のある素晴らしいお寺です。由緒や境内の様子をシェアしますので、ぜひ参拝をお楽しみください。おすすめは春です!
寿亀山 天樹院 弘経寺と千姫|由緒・天樹祭・御朱印・彼岸花|常総市
本記事に乗せてある寺宝や観音堂の内部は結城家物語で公開されたものです。
目次
弘経寺(結城市)とは
由緒
本尊は阿弥陀如来(半跏坐像)。阿弥陀如来は浄土宗の本尊。念仏はもちろん「南無阿弥陀仏」です。
由緒の「創建」にあるように、当寺は飯沼弘経寺の住職を招いて創建されました。開山が檀誉上人、開基が結城秀康ということですね。結城秀康は徳川家康の次男。最近は刀剣乱舞の影響で『御手杵』の持ち主として知名度が上がったようです。
弘経寺は秀康の娘・松姫の供養のためにはじまりましたので、創建当初は小さな寺院だったかと思います。由緒を辿ると月日が経つごとに境内が立派になったことが読み取れますね。
結城家は初代の朝光が浄土真宗、以降は基本的に曹洞宗です。浄土宗の当寺に秀康が帰依したのは同宗が徳川家に信仰された関係といわれています。結城になっても徳川の意識はあったのでしょう。
また、当寺の発展の背景には江戸時代初期に関東十八檀林に定められたことがあります。同檀林は江戸の増上寺を筆頭とした浄土宗の学問所。茨城だと常総の弘経寺、那珂の常福寺、稲敷の大念寺が数えられています。当寺で学んだ僧侶が各地で活躍したと考えると大変意義深いですね。
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檀誉上人は飯沼弘経寺の住職でしたが、下妻城主多賀谷氏と小田原北条氏の戦火により弘経寺が焼かれ下妻に逃れていたところを結城に招かれました。
仏像について学ぶならこちら
アクセス
最寄り駅は水戸線の結城駅。駅まで1.7kmほどなので徒歩約15分。車なら5分ほどです。
駐車場は境内の東側に位置しており、幼稚園側から入らないと停められません。ご注意を。
ちなみに幼稚園側の入口には写真の山門が置かれています。もちろん車ではくぐれませんので、門の右側を通過してください。この門は結城城にあったといわれています。
最寄りに高速道路は走っておらず北関東自動車道の桜川筑西ICを下りて約30分となっています。
名称 | 寿亀山 松樹院 弘経寺 |
---|---|
住所 | 茨城県結城市結城1591 |
駐車場 | あり |
表門
本堂の南に位置する表門。本来の入口ですが、車でお越しの方が多いため、わざわざ回り込まないと見られません。
結城は他の地域と比較して道路が狭く建物が密集しています。古い町並みを残している情緒あふれる町とも言えますね。わたしはかなり好きですよ。
表門の先の山道には桜並木。古木かと思いますが、春になると見事な花を咲かせます。奥にも立派な桜が植えられていますので、春の参拝は特におすすめです。
そういえば、飯沼弘経寺も桜の美しいお寺でした。いずれも姫の墓所ということもあって彩られているのかもしれませんね。
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春の境内のようすは『茨城県の桜』でご覧ください。
山門
一見してただの寺院でないとわかる山門。なんとも荘厳。関東十八檀林の筆頭にして徳川家の菩提寺、江戸の増上寺から移築されたものです。
増上寺は大東亜戦争の空襲で堂宇の一部を失っていますから移築されなかったら焼失していたのかも。山門に運命があるかわかりませんが、素敵な偶然ですね。
扁額の下に穴が空いているように見えますが、ガラス張りで中には釈迦如来像が安置されています。像は毛利の殿様が将軍に寄進したもので、それが増上寺、弘経寺へと渡りました。
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不動堂と六地蔵
山門の正面に立ち左手に目を向けると不動堂が立っていました。祀られる不動明王は密教で信仰される仏の化身。浄土宗の境内にあるのはどんなめぐり合わせでしょうか。
人の多様性に応じる形で誕生した明王ですから、きっと浄土宗の檀徒を救うための建立なのでしょう。不動明王は厄除け、煩悩退散に霊験あらたかとされます。
反対側に目をやると今度は六地蔵が並んでいます。地蔵菩薩は菩薩の中でも慈悲深く地獄に堕ちた者さえ救済するといわれます。だいぶ古いようで表情がほとんど読み取れなくなっていました。
浄土宗の本尊である阿弥陀如来は念仏を唱えるあらゆる人々を救済するので、理屈ではすべて阿弥陀如来に頼ればよいですが。。それだけでは不安を克服できないのが人情なのでしょうね。
観音堂
山門の先、本堂に向かう途中の左手にはこれまた立派な観音堂(開山堂)が建てられています。
宝暦4年(1754年)に三十三世軟誉辯秀上人によって建立。中には西国三十三観音霊場の写しが祀られています。
観音堂は基本的に閉じられていますが、2022年の結城家物語で公開。じつに十数年ぶりのことだそうです。拝見できて大変な幸運でした。しかも写真撮影も可。ありがたいことです。
堂前の石柱には左右に歴剤の木像十六体とありました。そちらは人物の方でしょうか。だとすればご住職のことなのでしょう。写真の他にも鮮やかな像がいくつも並んでおりました。
本堂
山門の先には驚くほど巨大な本堂。間口が八間(約14.5m)、奥行きが10間(約18m)もあるのだとか。これだけ立派な本堂はきっと文化財指定されているのだろうと思ったら違いました。
じつは明治後期の建立。寺院としてば比較的新しいのです。そのせいでしょうか、堂内で音楽イベント(結いのおと)を開催しているのを拝見したことがあります。
阿弥陀如来の前で歌ってますね!このイベントでは音楽ホールを使わずに町並みを舞台にしていました。若い方々が大勢いらしていたのが印象に残っています。
本堂はたびたび公開されておりまして、わたしも結城家物語で拝観できました。おかげさまでご本尊の阿弥陀如来もしっかりと撮らせていただいております。
本堂内でもっとも古いのは寛永年間(1630年頃)の天蓋だとか。修繕しているとは思いますが、400年近く経ってこれだけ綺羅びやかとは驚かされますね。
寺宝
結城家物語で公開された寺宝をいくつかご紹介します。まず結城家の歴代当主画です。初代朝光公は称名寺の画の写しとのこと。
2つの涅槃図のうち暗い方は16世紀中頃に作られたとされ、正保3年(1646年)に補修した記録があります。もともと飯沼弘経寺にあったものだとか。
もうひとつの涅槃図は天明年間(1780年頃)の作といわれています。巨大な一枚に細部まで描き込みがあって見事なものでした。それにしても人外多いですね。
徳川家光による御朱印状と結城秀康による黒印状です。領地を与える旨が記されています。寺社の歴史ではお馴染みですが、実際に見たことある方は少ないのではないでしょうか。
近年作られた結城秀康(2018年)と家康の像も公開。秀康はその不遇と将軍秀忠の兄という微妙な立場から、あまり肖像画が残っていないそうです。幕府が危険視したせいかもしれません。
しかしながら、結城にとっては歴代藩主のひとりであり結城弘経寺の開基ですから、このように凛々しいお姿として見てもらえるのは結構なことかと思います。
松樹院殿廟
本堂左手にある松樹院殿廟は開基である結城秀康の娘・松姫の墓所。当寺の院号も「松樹院」といいますので姫を供養するために建立されたとわかりますね。
ちなみに飯沼弘経寺の山号は天樹院。天樹院は境内に眠る千姫の院号でもあります。千姫は二代将軍・秀忠の娘です。
秀忠は松樹院の父・結城秀康の弟(母違い)。つまり、2つの弘経寺では兄弟の娘の供養がされています。わたしにはなんだか因縁めいたものを感じます。
御朱印
弘経寺の御朱印です。本堂右手の寺務所でいただけます。
まとめ
この記事のまとめ
- 結城秀康が娘の供養のために創建した
- 春になると境内が桜で彩られる
- 御朱印は本堂右手の寺務所でいただける
参考文献
茨城の寺(二)/今瀬文也
この記事で紹介した本はこちら
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。
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