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- 御祭神について
- 境内の大師堂
- 御朱印のいただき方
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茨城県のもっとも東にある神社は手子后神社です。ついでに最南端だったりもしますが。
この記事では神栖市の手子后神社をご紹介します。いろいろな事情であまり知られていないかもしれませんね。でも、調べてみると数々のミステリーを持った興味深い神社ですよ!
手子后神社とは
手子后神社の由緒をざっくりとご紹介しますね。
由緒
御祭神は手子比売命です。この神についてご存知の方はほとんどいらっしゃらないはず。
『鹿島史』によると武甕槌大神の娘、また一説によると常陸国風土記にある『童子女の松原』に記載される安是の嬢女だとか。
いくつもの伝説のある神社ですが、古くから漁の神として祀られてきたことは確か。境内社の厳島神社、浅間神社、稲荷神社、金刀比羅宮から、なんとなく神格を読み取れますね。
祭礼は鎮守祭(旧暦2月1日)と大祭(旧暦6月15日に近い日曜日)があります。鎮守祭の日は休漁とする慣習なのですが、その日は大時化(海が荒れること)になることが多く、漁師たちは難を逃れたそうです。
1910年の祭礼は晴天に恵まれ波崎以外の船は大漁でした。しかし、11時ごろに一変して海が荒れ32隻の船が沈み322名の犠牲者が出ました。御祭神が波崎の守護神とされる理由のひとつです。
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アクセス
車の場合は、東関東自動車道 潮来ICから約40分。
電車だとJR総武本線銚子駅よりタクシー5分または徒歩30分。
茨城のもっとも東。銚子大橋で利根川を渡れば千葉県です。
駐車場は鳥居の先、石畳の参道の左手前に停められます。
名称 | 手子后神社 |
---|---|
住所 | 茨城県神栖市波崎8819番地 |
社務所 | 10:00~15:00(土曜日、日曜日のみ) ※大安の日も開いている場合があります。(参考リンク) |
駐車場 | あり |
年間催事 | 1月1日…歳旦祭 2月3日…節分祭・追儺神事 旧暦2月1日…鎮守祭 旧暦6月1日…初山参り(末社・浅間神社) 旧暦6月14日に近い日曜日…例祭(大潮祭) |
お神輿
大鳥居をくぐり100mほど直進すると社殿が見えてきます。車を停めて境内へ。
すぐ右手にはお神輿が見えます。大きさからすると子供用でしょうか。奥に進むと倍以上のサイズのお神輿が見えますよ。
そう、手子后神社はお祭りで有名なんですよね。鹿島アントラーズの公式サイトには次のようにありました。
ロック歌手で神社に関する書籍を複数出版している相川七瀬さんは、手子后神社の御神輿に魅入られた一人。著書「太陽と月の結び」では、大潮祭で玉串を捧げた時のエピソードが書かれています。
寺社を巡る〜神栖市御朱印巡りその1 「茨城最南端へ!手子后神社」~/鹿島アントラーズ(公式)
活気があっていいですね!
お神輿は実際に見たことないのですが、鹿島神宮の神幸祭で奉納されていたあばれ太鼓ならありますよ。飛び跳ねながら叩くんですよね。見るのも楽しい太鼓です♪
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御神木
鳥居の先、境内に馴染んでいるので見逃すかもしれませんが、左手に巨大な松がそびえ立っています。しめ縄があるのでご神木でしょう。
松は手子后神社とふか〜い関係があるんです。由緒でご紹介した常陸国風土記では朝まで語り合った若い男女が恥ずかしさのあまり松になってしまったとあります。
神社の御祭神はその女性(嬢女)という説があるわけですが。。どうしてそんな説が?
鹿島灘風土記によると手子后神社の手子には、少女を親しみを込めての呼び名だとか。后については、古く手子崎神社だったことから伝説に関係して転化したのでしょう。
安是の嬢女の「安是」は浅瀬という意味なので、こちらは崎とよく似ています。つまり、手子崎と安是の嬢女はほとんど同じ意味です。
この辺りは寛文(17世紀)の頃まで松林とススキの茂る芝原だったそう。伝説が誕生しそうな土地だったわけです。人が住み始めたのもその頃といいますから、古代となるとおそらくかなり神秘的なエリアだったでしょうね。
地名と土地柄を総合するとそんな説が誕生するのも納得できるのではないでしょうか。
社殿
拝殿、本殿は20年前に建てられたばかりなので、非常に新しい印象。立派な入母屋造です。
提灯やお酒がたくさん奉納されているので、社殿が活き活きしていますね。
本殿は。。屋根の前方が多少長いので流造でしょう。松らしき彫刻も見えますね。もしかして童子女の松原伝説?
拝殿の裏には祠が並べられています。後ほどご紹介する大師堂もそうなんですが、さまざまな事情で祈念碑などを一箇所に集めることにしたのでしょう。
それでは続いて境内を散策してみます。
大師堂
参道の左手にある大師堂はなかなか興味深いですよね。実際には建物はなく、弘法大師像と庚申塔などの祈念碑がずらりと並んでいます。大師堂だけあって真言宗との関係が強そうですね。
神仏習合の跡であることは想像できますが、詳細についてはネットを調べても出てこないはず。非常に謎めいています。
かつて手子后神社の境内には別当の福性院がありました。神社の祭礼は福性院の僧侶が行い、神社の由緒も起草したそうです。手子后神社の参拝者は多かったので、知りたい方のために記録を取るようになったとか。
福性院は明治の廃仏毀釈によって廃寺となりました。現在、手子后神社の由緒がよくわからないのは、別当の廃寺によって書類がなくなってしまったせいかと思います。
江戸時代の初期、この辺りは東下村と呼ばれ旗本松下氏の知行地でした。同地には舎利とか舎利浜という地名があるのですが、東下村の神善寺の釈迦堂に由来しています。釈迦堂は武士が武運長久を祈願するなど非常に多くの信仰を集めていました。
手子后神社の御祭神の本地は釈迦如来といわれるのですが、神善寺との関係が気になるんですよね。そして別当の福性院も関係あるはず。手子后神社の由緒は周辺のお寺に手がかりがあるのかも。。
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【著:加門正一】江戸「うつろ舟」ミステリー【常陸国のUFO伝説】
稲荷神社
参道の左手に小高い山は浅間神社です。御祭神はもちろん木花咲耶姫命。手子后神社、厳島神社、浅間神社の御祭神は揃って女神。なかなか興味深いものがあります。
そして浅間神社の麓にお社が3つ並んでいます。注目は一番左の稲荷神社。社殿に漁業の神様と書いてありました。
じつはわたし、前から鹿行地域と銚子辺りの女化信仰が気になっていました。女化は茨城県南の龍ケ崎市内の地名です。
同地には女性に化けた狐の伝説に由来する女化稲荷神社が鎮座しており、同社の伝説によると正体を知られて狐は人間の男性との間にもうけた子どもを守るため土地の守護神となったとか。
非常にマニアックな神社なのですが、じつは千葉県や鹿行地域にも女化信仰があるんです。鹿嶋の宮中には同名の神社がありました。なんでも漁港のある町では女化神社の札を持って漁に出ると豊漁になるとか。。
どんな経緯で信仰が広まったのか、この神社は女化と関係あるのか。すごく気になっていたので周辺に聞き込みすればよかったと後悔。。
ところで、茨城県神社誌によると、こちらの神社の御祭神は宇賀御魂命とのこと。一般的な表記と異なり水と関係する神仏習合のような。。むむむ。謎は深まるばかり。
【キツネの恩返し伝説】女化神社と奥の院|由緒・飛び地の理由・御朱印|龍ケ崎市
御朱印
手子后神社の御朱印です。お守りも一緒にいただきました。
授与所でいただけますが、不在の場合は裏手の社務所にいらっしゃるかも。社務所に張り出されている電話番号に連絡するか、社務所のインターホンを鳴らしてお声掛けください。
まとめ
この記事のまとめ
- 御祭神は武甕槌大神の娘や常陸国風土記の『安是の嬢女』といわれる
- かつて境内には別当の福性院があった
- 御朱印は参道左手の授与所でいただける
参考文献
茨城県神社誌/茨城県神社庁
波崎町史/波崎町史編さん委員会
鹿島灘風土記/中村ときを
wataがいま読んでいる本
マンガで『古事記』を学びたい方向け
神社巡りの初心者におすすめ
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。