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先日、日立市の諏訪町に鎮座する諏訪神社の記事を公開しました。数々の謎を秘めた神社でしたが、あまり長くなりすぎてもと思い、特に万年大夫と諏訪の水穴について省略しました。
しかし、省略した部分はある意味でじつに興味深い内容なもので、改めてその部分だけを書くことにします。ただし、歴史として認められないことばかりなのでご注意ください。
今回は神仙思想を軸にオカルト風味となっています。もうふつうの説明は飽きたぜ!という玄人向けなので、ぜひ怪しみながらお読みいただけたらと思います。
万年大夫については『日立市の歴史点描』が大変参考になります。この記事でもたびたび引用させていただきました。
諏訪の大穴とは
由緒
まずはお話の舞台となる諏訪の水穴について。日立市諏訪町の諏訪神社(上社・下社)と深い関係があるとされる場所でして、神社から見て西北に位置しています。
車で行けるのですが、駐車スペースは非常に限られており、二台以上の駐車はちょっと不安。しかし、水穴を見物する方は稀なので埋まっていて困ることはないかと思います。
道路沿いにある水穴を示す石碑があるのでその前に駐車。それから石段を下りて現地へと向かいます。なお、駐車スペースには立て札があって以下のように水穴を紹介していました。
諏訪の水穴(神仙洞)
諏訪の水穴(神仙洞)は、ここ諏訪町大平田にあり、普賢ヶ嶽の麓、緑豊かな木々に覆われた清水湧き出る鍾乳洞です。
この水穴には、遠い昔、信州(長野県)諏訪大社の御分霊をこの諏訪の地に祀られた神官万年太夫藤原高利夫妻が自分の木像を造り諏訪神社に納めて水穴に入り、再び帰らなかったという伝説があります。
また、水戸黄門徳川光圀公もこの水穴に入り洞の狭くなった三の戸に「これより奥には入らぬように」と記されたとも伝えられています。
その後、水戸藩の学者や文人が訪れ、名勝として紹介してくれましたので、広く知られるようになりました。
ところが、戦後。下流に防災ダムが設置され、水穴は、砂利で埋没し、三十年もの間、昔の面影を失っておりました。
この間、地元の強い復元運動が起り、県や市並びに関係団体のご協力で、このたび、水穴は立派に昔の姿に甦りました。
この価値ある天然記念物、史跡名勝としての「諏訪の水穴」を大切に守っていくことは私たちの責務です。
水穴見学の際は、充分安全に注意し、汚したり、傷つけたりすることのないようお願いいたします。昭和五十七年四月十八日
環境を守る日立市民会議
諏訪の水穴復元記念協賛会
神社だけでなく水戸黄門(徳川光圀)とのゆかりもあるんですね。そして一度埋没して失われたものが、地元の方々のご尽力によって近年になって復活したとあります。
面白いのは別名の「神仙洞」です。シンプルな「諏訪の水穴」の表現に対してなんともミステリアス。神仙洞の名称は18世紀には使われており、『郷土ひたち』の第68〜69号では神仙思想との関係が指摘されています。
神仙思想は要するに「人は修行により仙人になれる」とする考え方ですね。神秘的なようでその手法は具体的に提示されることが多く、それが現実的であるかは別としてじつは論理的だったりします。
日本人の想像する仙人は老人の姿ではないでしょうか。しかし、本場である中国の仙人は「不老」なのでじつは若者の姿をしていると考えられます。フリーザとかガーリックJrみたいに永遠の若さを手に入れることが狙いです。
司馬遷の『史記』によれば、始皇帝は神仙(不老不死)に憧れて家臣にそのための霊薬を探させたとか。気持ちはわからないでもありませんが、日本人の感覚とはずいぶん違う気がします。
江戸時代に水戸藩が編纂した『開基帳』には、この地に山伏がいたことが認められています。山伏は山で修行し験(超能力)を修めようとする者たちのこと。修行者は行者、それにより験を身に着けた人を修験といいます。
神仙洞の異名から諏訪の水穴は行者が訪れるような場所であったと考えられます。そして行者や山伏といった庶民とは異なる思想を持った者たちが、わたしたちが知るような伝説に影響しているかもしれません。
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アクセス
名称 | 諏訪の水穴 |
---|---|
住所 | 茨城県日立市諏訪町 大平田 |
駐車場 | なし? |
入口
水穴に続く石段はこちら。緑色のフェンスの終わりのあたりから石段が始まっています。これは初見ではわかりにくいかも。
手前にある石碑には「厳島神社 相殿八坂神社」。その裏には「諏訪神社 大平田建設委員会 平成十八年九月吉日」とありました。どうやら厳島神社は諏訪神社の一部と見なされているようです。
左に見える高台に鎮座するのが神社。右下の暗くなっている辺りにあるのが水穴です。厳島神社がどれくらい古いかは不明です。おそらく江戸時代頃にはあって水穴と何らかの関係があったのでしょう。
諏訪の水穴
水穴まではだれでも簡単に行けるようになっています。ただ、川の水量は日によって違いますから、場合によっては小川をまたぐ必要が出てきますのでちょっとだけ注意が必要です。
駐車してから1〜2分で水穴まで来れました。下流へと流れる水はなんとも清らか。しかし、鍾乳洞の中は暗くて不穏な雰囲気。水戸黄門が「三の戸」より先に行ってはならないと警告したというのは納得です。
「戸」といえば一般的には扉と受け取るでしょうか。じつはそれだけでなく両脇がせばまる形を意味します。水戸は「みなと」、喉は「のみと(略してのど)」で、先端や途中がせばまることから呼ばれるのでしょう。
三の戸はそれだけ狭くなっているわけで、そのぶん溺れたりする危険性があるから侵入を禁じたと考えられます。もしかしたら、その先にオカルト的な何かがあるとされたからかもしれませんけどね。
下諏訪神社の社伝によれば、信州の諏訪からやってきたという万年大夫はこの先が諏訪に繋がっていると言ったそうです。ということは、もしかして常陸国を訪れた際にもこの水穴を経由したのでしょうか。
だとすれば現在の上社・下社の分け方は説明がつきます。水穴に近く先に創建されたほうは陰陽説によって上社とされます。『日本書紀』の冒頭にある天地開闢の記述にもあるように先=上、これは陽気の特性です。
ただし、先とか上は「尊」という意味にも通じておりますので、現実的には神社の別当(代表者のこと。江戸時代は僧侶である場合が多い)との関係性によるところが大きいのではないかと思います。
『開基帳』によると上下の諏訪神社の祭祀者は高野摂津で泉大明神(現在の泉神社)を兼務していました。古くは上社の御祭神が泉大明神と同じ天速玉姫だったというのは、そうした関係もあるのでしょう。
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厳島神社
続いて台地の厳島神社へ。写真に見える建物は上屋にあたり、鳥居などとあわせて平成十八年に建立されました。
上屋は社殿を覆う建物なので、その内部に昔ながらの社殿が鎮座しています。上屋には大小2つの社殿がありました。小さい方は相殿とされる八坂神社なのでしょう。
厳島神社がいつ頃からあるのかは定かではありません。ただ、個人的には明治以降の創建であれば記録等が残っている場合が多いので、神社自体は江戸時代以前からあったのではないかと思います。
社殿のすぐ傍には上のような石碑が建てられていました。非常に読みにくいのですが、一番上の文字が「厳」とあるような。。
ほかには波切不動尊やなんとか大神の石碑が建てられています。前者は真言宗の開祖である空海が唐から帰国する際の船上の安全を守護したとされる不動明王です。
同石碑は真言僧に限らず、密教系の信仰を含む行者(山伏)によるところとも考えられます。いずれにせよ個人的なものであれば石碑は不要なので周辺の方々にも知られていたのでしょう。
万年大夫と万年守子
現在の諏訪町に上下の諏訪神社を創建した後に水穴に消えていったという万年大夫。姓は藤原と伝わるので「万年」は限りなく長命であることを示す異名でしょうか。
神社の創建はともかくとして、水穴に消えていったという伝説からは生身の人間とは思えないものを感じます。その姿が木像として伝わることもなにやら奇妙。仏さまじゃないんですから。
万年大夫の像は妻のものとあわせて日立市郷土資料館に展示されており、だれでも無料で拝観できるようになっています(写真撮影可)。水穴からさほど離れていませんので実際に足を運んで上の写真を撮影してきました。
全部で四体あり、小さい方が万年大夫が造らせたもの。大きい方は伝説を耳にした光圀公の命によって元禄3年(1690年)に造られました。その中に小さい像を納めることで保護したとのことです。
さて、この像について次なる関心は女性について。大夫の妻とされており、水戸藩の『開基帳』によれば「万年守子」とされています。「守子」について「日立市の歴史点描」には次のようにありました。
守子について
鈴木 福寿
守子(もりこ)は「わか」または東北地方で「いたこ」とも呼んでいる。茨城地方では古くから「わか」「守子」と呼ばれ、現在でも日立市には数人がそうした仕事に就いている。
この人たちは、守子となるため、守子にふさわしい修業をつんだ人に仕え、火だち、穀だち、生きものだち、塩だちをし、夜中に七杯の水行をして身を清める。毎月1、3、8、10、15、23、24、28日の八つ時に墓、宮にこもり、修業をする。その後初めて守子となる。
「守子」は各家の依頼によって、「守子よせ」「わかよせ」を行う。夜間に行われる仏寄せを大弓、昼間行われる仏寄せを神座という。仏寄せをするときに使う弓を大弓とも呼び、長さ1間(六尺)の七節のあるものが使われる。この大弓を使うのは、水戸藩徳川光圀の時代、光圀の家来の家族が原因不明の死に方をして、そのとき大弓をたたいて祈祷したことが始まりだと伝えられている。この祈祷方法は光圀がゆるしたものだという。
*昭和53年 日立市宮田町萩庭千代さん(69歳)からの聞き取りによってまとめたもの
日立市の歴史点描
わたしなりに解釈すると守子とはいわゆる口寄せを行う巫女のこと。大弓を使うわけですが、そうした女性を一般的には梓巫女と呼ぶかと思います。
極めて呪術的な行為のため、光圀公の寺社改革の時代にどのような立場に置かれたのかは興味のあるところ。果たして伝承のとおり公認されていたのでしょうか。
改革では祈祷を専門とする者は人心を惑わすとして存在を認められていませんでした。還俗させられたのは僧侶が多かったかと思いますが、その判断基準を考えると梓巫女の存在も難しかったはずです。
守子の実態が梓巫女であるとするならば、手元にある事典の次の記述との関連に興味が湧きます。
近世には各地の地誌や風土記に巫女の記録がみられ、梓巫女も散見するようになる。梓巫女は十六世紀の『御伽草子』に東国出身の者としてすでに描かれているが、近世になるとこの名称は関東および信濃国あたりで用いられていたようで、関八州の民間宗教者を配下においた習合神道神事舞太夫が「梓神子」として支配した。本来は口寄せに用いる呪具としての梓弓を使うところからの名称と考えられるが、舞太夫配下の梓神子は広く漂泊の旅をしたが、梓弓を用いず、青眼である。一八四七年(弘化四)の『賤者考』にも「信濃巫」として記載がある。
民俗小辞典神事と芸能
口寄せ、梓弓、信濃国(現在の長野県)、漂泊の旅、神事舞太夫…
信濃国から万年大夫とともに常陸国を訪れ、守子と呼ばれるような口寄せを行った。梓巫女と万年守子のシンクロ率は異様に高く、「まんねんたゆう」の名称は「まいたゆう」から転訛したようにさえ思えます。
それに諏訪神社のある大窪郷にいた大窪玄徳が18世紀に遺した『北群神社仏閣記』には万年守子を「万年神子」と表記しています。守子と神子は同義と考えられていたのでしょう。
ちなみに梓巫女にはいくつか系統があって、引用元は浅草の田村八太夫家(以前は幸松勘太夫家)の支配下にある神子(巫女)を指します。独自の経済基盤を持つ東北の神子と違い舞太夫とキャラバンを組んで生計を立てました。
舞太夫は文字通り神事で舞う男性のことで、読み書きが達者な知識人だったといわれます。神子と夫婦の関係になってその仕事をフォローしながら、各地の有力者との交渉役も担当していたようです。
神事舞太夫と梓神子の関係は戦国期から近世にかけて成立したと考えられているので、そのとおりであれば諏訪神社の社伝(鎌倉期の創建とする)とは無関係です。このあたりは創建とは別に考えるべきかもしれませんね。
ところで、少し話がそれますが、梓巫女に関係するお話として『日立の伝説』(1985年発刊)に興味深い著者の体験談があります。
筆者が四十五年程前見たワカさまの霊媒よせは、大弓を祭壇にかざり真暗にした部屋のなかで呪文を唱え、管狐をあたりに飛び廻らせて、聞くもの畏敬させていたが、あれは飯縄権現を信奉する女の修験者で、飯綱法を用いる飯綱使いだと聞かされた。小学校三、四年のころで、管狐といわれる動物などは見ることもできず、ただ恐ろしい思いをした記憶だけが残っている。
日立の伝説|柴田勇一郎
著者は諏訪からさほど離れていない会瀬町の出身。ワカは大弓だけでなく管狐まで操るというのが面白いですね。著者にとって管狐がよほど印象的だったのか同書ではこのあと狐との関係を探り、会瀬町に近い宮田町の観音院で祀られていたという荼枳尼天やそれを鎮守としていた大雄院を紹介しています。
しかし、注目はすべき飯綱法についてです。同法は飯縄山(飯綱山)に発祥したという飯綱権現に由来するもので、同山は信濃国(長野県)に位置します。この信仰の伝播は諏訪神社や梓神子と重なるところ。
水戸市赤塚の飯綱神社は八幡社を潰して末社の飯縄権現を主祭神として創建したと伝わります。水戸藩内で飯縄権現が容認されていたとすれば、飯縄法を操る神子も同様だったのかもしれませんね。
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「八卦」で見る水穴
万年夫婦のほかにわたしにはもうひとつ気になることが。それが諏訪の水穴と八卦の関係です。
八卦とは古代中国に発祥した神仙思想のひとつ。陰陽の気のバランスを八種類の卦(記号)で表現し、万物をそれら八種類によって分類する考え方です。儒教や道教の教義の中に取り入れられており、概要は儒教の経典のひとつである『易経』にまとめられています。「当たるも八卦当たらぬも八卦」のことわざに使われる八卦は占いで用いられることが多いのですが、本来は古代中国発祥の哲学です。
上の写真は中国の道観(道教の宗教施設)です。背景に八卦図(先天易図)が掲げられ、道士はその法則のもと活動します。道教は中国の土着の宗教ですから、濃淡はあれど大陸の常識として広く知られていたことでしょう。
そうした八卦の思想で水穴と諏訪神社の関係を見てみると。。前述の通り水穴は神社から見て西北。言い換えると神社は水穴から見て東南に位置しています。東南の方位にあてられる卦は巽。巽は「たつみ」とも読み、十二支では「辰巳」と書きます。
その東南に位置する諏訪神社の御祭神はタケミナカタ。同社の本営がある信州では同祭神が蛇体であるとして知られています。辰巳は辰(龍)と巳(蛇)でいずれも蛇体。水穴を基点として辰巳の方位に諏訪神とは面白い関係です。
また、八卦に基づく守本尊の思想においては、辰巳の方位に普賢菩薩があてられています。同菩薩は明治以前の神仏習合時代にタケミナカタの本地仏とされていました。水穴の現地にある立て札によれば、当地は「普賢ヶ嶽の麓」。こうした地名も巽と諏訪神を結ぶひとつです。
八卦や神仙思想は特に行者(山伏・修験)が学ぶ分野です。当地の古い文献でも水穴や周辺は彼らの修行のための霊場とされていたようで、個人的には万年大夫の伝説にも影響したのではと考えています。
八卦において巽がどのような存在かというと。。『易経』の説卦伝に巽の象(意味するものが)の一例が列挙されているので抜粋します。
巽を木と為し、風と為し、長女と為し、縄直と為し、工と為し、白と為し、長と為し、高と為
し、進退と為し、果ならずと為し、臭と為し、その人におけるや寡髪と為し、広類と為し、自眼
多しと為し、利に近づき市って三倍すと為し、それ究まりては躁の卦と為す。
これらは巽を示す卦(記号)から読み取れる象となっています。今回それについて詳しく説明しませんが、「高」や「利」といった象が万年太夫の本名とされる「高利」を構成しているのは考えすぎでしょうか。
続いて万年大夫夫婦の木造について。木造は万年大夫の遺言として造られ、神社の御神体とされています。現代では人を死後に神とすることは不思議ではありませんが、江戸時代以前であれば怨霊の類を除けば稀です。
では、なぜ夫婦像は造られたのでしょうか。それは同時代に人を神として祀った例をみると参考になるのではと思います。
上は小美玉市の旧天聖寺に伝わる天妃象です。茨城県内の天妃尊としては他に弟橘媛神社(北茨城)と祇園寺(水戸)が有名でして、これらの信仰は徳川光圀公が招聘した東皐心越に由来するといわれています。
天妃は心越の母国(現在の中国大陸)では媽祖として祀られる道教の神様です。道教では生身の人間であっても生前の徳によって神とされ、御神影や仏像のように偶像崇拝されることが少なくありません。
上は許遜(許真君)の像です。媽祖と同様に死後になって神とされました。ただし、現地では神というよりも仙人と同義である真人(聖人)と解されています。笏を持って座しているあたりは万年大夫と似ています。
冠に見えるのは龍の装飾です。許遜の生前の事績とされる龍退治に関係あるのかもしれませんが、道教では霊魂を導く霊獣とされます。
こうした解釈をつなぎ合わせると夫婦像は道教や老荘思想といった神仙思想によって造られたと思うのです。夫婦が水穴に消えていったとする伝説は、そこで神仙(仙人)となったことを示唆するものでないでしょうか。
まとめ
念のためお伝えしますが、わたしの理屈は歴史とはまったく無関係です。「もし社伝に創作が含まれるのであれば、そのロジックは何か」を説明するために八卦の発想を使っているだけです。
だいぶ長い記事になってしまった話をまとめさせていただくと、万年大夫伝説にはモデルとなった人物が実在し、それを後世になって八卦などの神仙思想で装飾して伝えていないか、がわたしの主張です。
諏訪神社は佐竹氏との関係が深いようなので神事舞太夫や梓神子が活躍した時代よりも古くからあるかと思います。しかし、(わたしが知る限り)神社の記録は創建の伝説を除けば江戸期以降のものに限られます。
信仰はされているけれど詳しい来歴まではわからないところに水戸藩の調査があったことで由緒が整備されていったのではと見ています。由緒不詳となれば廃社の可能性もあったためです。
当社の歴史が浅いとか社伝は創作と主張するわけではありません。鎌倉期の初期と伝えられるのは諏訪信仰が広まった時期と重なって現実的です。従来の説も無視すべきではないでしょう。
参考文献
茨城県神社誌/茨城県神社庁
茨城県の地名/編:平凡社
郷土ひたち 第69号/郷土ひたち文化研究会
郷土ひたち 第68号/郷土ひたち文化研究会
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