wata
伝説と現実が交わる瞬間。なんとも奇妙でワクワクしますよね!
今回は茨城でも有名な「九尾の狐伝説」に登場する源翁和尚のお墓をご紹介します。
「殺生石をぶっこわす!」伝説の僧侶のお墓は結城の市街地にあります。
源翁和尚とは
早速ですが、源翁和尚とはどんな人物なのでしょう。源翁和尚の墓にある立て札から引用します。(漢数字はアラビア数字に置き換えました)
市指定史跡 源翁和尚の墓
源翁(心昭)和尚(1326〜1396年)は、南北朝期の曹洞宗の僧侶で、越後国(新潟県)に生まれ、同国の陸上寺で出家しました。十八歳の時に禅宗に転じ、能登国(石川県)の総持寺の峨山禅師の弟子となり修行をしたのち、諸国をまわって多くの寺院を創建しました。
室町時代の応安4(1371年)年には、結城家八代直光の招きで結城を訪れ、奈良時代に律宗の寺として創建されたといわれる安穏寺を禅宗の寺に改めて開山しました。
この源翁和尚は、安穏寺に四年間滞在したのち会津に行き、さらに那須では、悪い煙を噴き上げて人や鳥獣たちに害を与えていた殺生石を二つに割り、石の中にいた悪霊を成仏させた人物として知られています。このことは、源翁和尚とその門人たちが石工に関係があり、源翁和尚の周囲に職人達がいたことをうかがわせます。
また、殺生石にまつわる伝説は、民話、能、浄瑠璃などに取り上げられ、全国的に知られており、このことから、石を砕いたりする槌を「げんのう」と呼ぶようになったといわれています。
なお、源翁和尚が使用したと伝わる数珠と払子が、今も安穏寺(市内鍛冶町)に残されており、茨城県指定文化財になっています。
平成23年3月
結城市教育委員会
書きたかったことが全部書いてある。。!?素晴らしい説明です。
補足しますと、殺生石は大陸から渡来した『悪狐』が姿を変えたものといわれます。茨城には悪狐に関する伝説が他にも伝わっていますので、さらに詳しく知りたい方は関係リンクをご覧ください。九尾の狐が出てきます。
立て札には和尚の周囲に職人達がいたとありますが、こちらもなかなか興味深いですね。安穏寺の住所は鍛冶町ですと?
槌を扱う、あるいは造る人たちの信仰の中心に「げんのう」和尚がいるということは。。なるほど、ブランディングになりそうですね。
和尚はもちろん亡くなっていてお墓は結城市にあります。結城で亡くなったのでしょうか?ちょっと不明なところもありますが、とりあえずお墓参りするなら結城です!
源翁和尚の墓
源翁和尚のお墓は結城市の結城小学校の西の住宅街の一画に位置しています。
てっきり駐車場はないかと思ったのですが、すぐそばに安穏寺管理の駐車場が用意されていました。ふだんはコーンが置かれていますので、動かしてからご駐車ください。
じつは停められないと思っていたので役場から500mほど歩いてきました。安穏寺からも800mほどなのでお寺とあわせてお参りするのもいいと思います。
駐車場から直接墓石の前まで行けるのですが、別に入り口らしきものがあります。
『結城百遷』とありますね。市内の名所や史跡などが選ばれた小さな観光スポットです。じっさいには100個以上あったりします。アバウト!
あまり手入れがされていないようで、石畳の間からにょきにょきと雑草が伸びております。。雨さえ降っていなければと多少後悔。
30mほど進むと少し開けておりまして、中心に立派なお墓がありました。無縫塔ですね。お寺の一画に並んでいるのを見ますが、多くは先代のご住職たちを弔ったものです。
かなり時間が立っているようで表面になにか文字があったかもしれませんが、まったく読めません。
源翁和尚の伝説がどこまで本当かはわかりかねますが、多くの寺院を創建し仏の教えを広めたことはたしかでしょう。
わたし自身安穏寺の僧侶の方によくしていただきましたし、和尚の功徳はいまにもしっかり伝わっているかと思います。静かにお参りさせていただきお墓を後にしました。
アクセス
名称 | 源翁和尚の墓 |
---|---|
住所 | 茨城県結城市大字結城1978-17 |
駐車場 | あり |
まとめ
この記事のまとめ
- 源翁和尚は安穏寺(安穏寺)を創建
- 殺生石を砕いた伝説があり、砕いた槌を「げんのう」と呼ぶようになったといわれる
- お墓は安穏寺から800mほどの位置
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。
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