結城蔵美館で企画展『結城藩の戊辰戦争』(結城市)

この記事でわかること
  • 企画展『結城藩の戊辰戦争』のダイジェスト
  • 結城市のマンホールカードについて

新型コロナの影響で一時閉館していた結城蔵美館くらびかん。再開に伴い興味深い企画展が開催されています。

その名も『結城藩の戊辰戦争』。戊辰戦争といえば幕末の新政府軍と旧幕府軍の戦いです。学校で習うのでなんとなく知っている方は多いのではないでしょうか。

この記事では結城市の結城蔵美館と現在開催されている企画展『結城藩の戊辰戦争』をご紹介します!面白かったら実際に企画展に足を運んでみましょう♪

結城蔵美館とは

結城蔵美館の外観

結城蔵美館の外観

結城蔵美館は結城市の結城にある入館は無料のコンパクトなギャラリーで本蔵と袖蔵の2つで成り立っています。

本蔵は企画展やアート作品の展示・販売をしています。今回は新型コロナの影響で作家の展示・販売が難しかったので、急遽企画展になったのだとか。ただ、とても興味深い内容ですし、市内の観光とセットで楽しめるのでオススメですよ〜

袖蔵は常設展です。1階には明治時代に結城周辺で行われた『陸軍特別大演習』に関する資料があり、2階には『御手杵の槍』(模造)が展示されています。

御手杵の槍は『刀剣乱舞』で知られる槍ですね。イベントの際には数千人のファンがくるのだとか。決して大きな建物ではないのでその数にはびっくりしました。こちらはまた別の機会に改めてご紹介します。

現在は入館にマスク着用が必要です。消毒をしてから用紙に住所氏名、連絡先を記入します。公共施設はどこも同じかと思いますが、会場で感染があった場合に連絡がいく仕組みになっているんですね。『アマビエちゃん』もありました。

MEMO
蔵美館は自転車サポートステーションとしてバイクラック、空気入れ、お手洗いなどを利用できます。雨宿りもOKです。

企画展『結城藩の戊辰戦争』

企画展『結城藩の戊辰戦争』の案内

企画展『結城藩の戊辰戦争』の案内

企画展は6月27日〜8月5日まで開催。資料は決して多くありませんが、パネルを通じて結城藩の戊辰戦争について把握することできます。

パネルの内容は資料として持ち帰れるので、まずは甲冑などをチェックするのもいいでしょう。ここでは企画展の解説に補足しながら『結城藩の戊辰戦争』をご紹介します。

本蔵・内観

本蔵・内観

まずは幕末の大政奉還と当時の結城藩主の動きについて。資料から抜粋します。(少し言葉がおかしいところも修正していません)

 その後、慶應3年(1867)10月14日、江戸幕府第15第将軍の徳川慶喜が政権を朝廷に返上(大政奉還)したことにより、日本国内は大きく揺ぎ、また結城藩内混乱の始まりでもあった。
 同年12月9日に王政復古が宣言され、新政府より諸藩主に上京が命ぜられた。藩主勝知は判断に悩み、決めかねていたが、江戸詰家老の水野甚四郎は佐幕的立場をとっていた。その結果、同年12月18日、勝知は旧幕府から、江戸城半蔵門口門番を命じられた。江戸詰家老によって左右されていたのである。
 これに対し、結城に残る家臣たちの多くは恭順派であったため、小川鈴之が江戸藩邸に行き、新政府の命に従い上京するよう藩主を説得した。しかし、勝知の考えは佐幕派で動かなかったが、勝知は新政府に上京猶予願いを提出している。ここに藩主としての苦悩をみることが出来るのである。

新政府が上京を命じたのは国元でよからぬ企みをしないようにです。個別に計画的な反乱を起こされると対処できないためですね。

大政奉還と同日に倒幕の勅許が下るような状況です。そして王政復古の大号令により徳川慶喜は将軍職でなくなり、江戸幕府は廃止となりました。これで旧幕府側は終焉と判断しがちですが実際にはそうでもありませんでした。薩摩藩や公家の岩倉具視らではいきなり政権を担当することはできないと思われていたからです。

旧幕府の官僚と多くの藩はまだまだ慶喜支持。慶喜もそれを承知であえて大政奉還しました。一旦権力を手放し再び信任されることで反対派を黙らせるつもりだったのでしょう。

結城藩に限らず多くの藩は新政府に従っていいか迷っていたと思います。

 そこで、慶應4年(1868)1月10日に、家老の小場兵馬が江戸藩邸に行き、新政府の命に従い上京するよう藩主を説得し、これに成功した。この結果、水野甚四郎は蟄居を命じられ、一時は藩内の対立は収まったかに見えた。
 しかし、同年2月1日に、上野の寛永寺に謹慎中の慶喜の警備と、旧旗本有志で構成された彰義隊を指揮する「上野山内護衛並ニ彰義隊付属指揮役」を旧幕府より命じられた。
 これを知った結城の家臣たちは、同年3月12日に結城城に集まり、藩主勝知を廃し前藩主勝任の子、禊之助(のち勝寛)を新藩主に擁立しようと、藩主交代願いを作成し60余命が署名捺印した。

注目したいのは1月10日の日付ですね。王政復古の大号令から1ヶ月経っていませんが、状況は大きく変わっています。

大号令があったにも関わらず慶喜は勝手に外交するなど恭順とは程遠い態度。そうした慶喜と旧幕府に対して薩摩藩(邸)は江戸で放火などして挑発を繰り返していました。

その結果、旧幕府側は12月25日に江戸の薩摩藩邸を焼き討ち。怒り心頭のまま京都に進軍します。新政府軍はそれを迎え撃つ形で翌年1月3日の『鳥羽・伏見の戦い』となります。この辺は教科書でも取り上げるところですよね。

戦いの初戦は新政府軍がやや有利。翌日に『錦の御旗』が翻ったことで慶喜は戦闘を放棄。6日には江戸に逃亡しました。慶喜は逆賊として歴史に名が残ることを恐れたといわれています(だれでもそう思いますが)。これで実質的な決着となりました。

つまり、1月10日は先月の「旧幕府と新政府のどちらが勝つかわからない状況」ではないんです。佐幕派だと敗軍になる可能性が高いので勝知は中立(本音は佐幕)ではなく新政府に従うことにしたのでしょう。

しかし、勝知はふたたび旧幕府側として動くのです。藩全体を危機にさらすので恭順派の家臣団は新たな藩主を立てて新政府支持であることを明確にしました。

ここから結城藩は藩主側(佐幕派)と新政府側(恭順派)に分裂して本格的に対立します。藩内の戦いでは城を取ったり取られたりで均衡しているのですが。。3月13日に勝海舟と西郷隆盛が会談を行い、4月11日に江戸無血開城となります。藩主側は追い詰められていきます。

以降は鳥羽・伏見の戦いではなく戊辰戦争です。戊辰戦争は結城に限らず新政府軍が一方的に勝利を重ねます。その中で特に激しく抵抗したことで知られるのが蝦夷(北海道)の五稜郭に立てこもった榎本武揚や土方歳三(新撰組)らでしょう。

どの戦線も悲しい最後を迎えることが多いのですが。。結城は新政府軍の配慮もあって比較的穏やかな終わり方をしたようです。詳しくは現地でチェックしてみてください!

展示物:小場兵馬所有甲冑

展示物:小場兵馬所有甲冑

こちらは展示品のひとつで小場兵馬所有甲冑(伊予札菱綴二枚胴具足)です。恭順派の代表だった結城藩家老・小場兵馬が身につけていました。

変わり兜にくっついている部分を兎耳と言うそうです。うさ耳っ!?

wata

結城藩の分裂は徳川慶喜の態度によるところが大きいかと思います。慶喜は水戸藩出身のスーパーエリートで優れた政治家だったので残念ですね
MEMO
戊辰戦争で亡くなった方々を慰霊するため明治天皇の思し召しによって建立されたのが靖国神社(旧招魂社)です。

マンホールカードの配布

知る人ぞ知るマンホールカード

結城市のカードは結城蔵美館で配布しています。蔵の中では特に案内はなかったと思いますので、欲しい方はなんとか思い出してください!

アクセス

名称 結城蔵美館
住所 茨城県結城市結城1330
営業時間 9:00〜17:00
駐車場 あり(10台ほど)
定休日 木曜日
TEL・予約 0296-54-5123
Webサイト 結城市(公式)
SNS

まとめ

この記事のまとめ

  • 幕末、結城藩は藩主の旧幕府派と家臣団の恭順派で分裂して争った
  • 戊辰戦争では恭順派が勝利した
  • マンホールカードは結城蔵美館でもらえる

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