wata
神社には神様がいて、神様には御神徳があって…たしかにそうなのですが、本来は一律に説明することはできないはずです。神社はその土地ごとの信仰があってのことですから。
ただでさえ説明が難しいのに、神話でも不詳の神様となると難易度MAX。今回ご紹介する水堀(つくば市)の面足神社はまさにそれ。調べていてハテナ連発、ホントぉ?とつぶやきたくもなります。
というわけで、わたしにはまともに説明できないので、本来はこうじゃないかと考えながら読んでもらえたら嬉しです。
由緒
以下は『茨城県神社誌』にある由緒をまとめたものです。
江戸時代の創建といわれるが定かではない。
ご祭神は淤母陀琉命(単体)です。これだけの説明ではほとんど理解できないので、現在の境内にある立て札から創建と御祭神に関する部分を抜粋してご紹介します。
西暦紀元一一八五年、源頼朝公は鎌倉幕府創設にあたり、御家人を各地方に守護、地頭職として任じた。我らの祖先も面足尊を産土神と奉り当地に入植した。爾来、開拓と漸次集落の形成と時代変遷の中、協和繁栄を連綿と続けるべく、鎮守の神として崇め敬ってきた。また、徳川幕府体制のもと第六天を祭祀して、共に守護神とした。神史は、別天神の五神により天地創造がなされ、続く神世七代神をもって国土形成、経営に入ったという。
面足尊は、その第六代神にて、男神・淤母陀琉神は大地の表面が完成した意味の神名で、女神・阿夜訶志古泥神は大地が成立した意味の美称である。併せて偶数神にて一代神とされる。因みに我が国最初の夫婦神とされる伊邪那岐神・伊邪那美神である。面足とは、大地の表面が不足することなく具わったという満足の意味で、内に秘めた徳の光である。自ら不徳あれば省みて善に改め、諸人の人格を尊重し之を敬し愛せしものである。即ち、面足尊を祈り産土神に感謝し、謙譲の美徳を養い、集落の育成と人格の向上に努めるものである。
第六天とは、仏教宇宙観に由来する、天界における最高位の魔王である。仏教宇宙観は無色界、色界、欲界と、三界に区分される。その欲界は六道輪廻世界で言うところの天界に属し、天界は更に六天に分類される。その中の欲天は更に六層に別れ、その欲望究極の最上層の世界を他化自在天「第六天」という。その王の与える快楽が欲望をかきたて、六道の苦しみから逃れる根本的な解決策になるとされる。この事は悟りを開くための仏道修行を忘れさせるとされ、仏教では、その王を第六天魔王と呼ぶ。我が国は、飛鳥の代に国家の礎として仏教を導入したが、国家安定と現世の現実的繁栄を求めんがため、中世に至り神仏習合を図った。そのことにより当神社も共に祭祀される事になったと思われる。
神社誌の説明とは違って、創建は鎌倉時代まで遡るそう。そして神仏習合時代の江戸時代は「魔王」である「第六天」をお祀りしていたようです。それがオモダルと同一であるとしています。
オモダルは記紀神話において名称しかありませんから、第六天との習合理由は不明です。個人的には第六天の祭祀が先行しており、明治の神仏分離によって神道的な解釈のもと置き換えられたと思います。
第六天信仰の本営は香取市(千葉県)の山倉大神とされていますので、興味のある方はそちらを調べてみるとよいかと思います。わたしは守備範囲外なので「いつか」と思いながらはや数年が経過しております。
それと山倉大神ではご祭神を高皇産霊大神としています。祇園の八坂神社が牛頭天王からスサノヲに置き換えたように、なぜ分社が本営と同様にしなかったのかは疑問が残るところですね。
wata
第六天と大六天は同一です。後者は勅額に揮毫されたことから用いられることがあります。
鳥居と由来碑
面足神社の入口がこちら。左は駐車場のようですが、車止めがあるため侵入できません。氏子専用かもしれませんね。一般の参拝者は右側の道祖神の祠の隣に一台であれば停められます。
左側の石碑は青面金剛でした。おそらく享和2年(1802年)に建てられたのでしょう。庚申講の本尊として信仰されており、これが神道系だと申(さる)つながりでサルタヒコだったりします。
短めの参道の右手の木々はソメイヨシノかと思います。比較的近くに植えられていますから、春になったらお花見のスポットになるのかもしれませんね。
本殿の手前の社号標には「第六天神社」が併記されていました。いまこの社号を用いることはかなり少なくなっています。地域によっては「高皇産霊神」の場合もありますね。
一応、当社における第六天の解釈については前述しましたが、そもそもどうして魔王が祭神なのかは不明です。中世の「悪党」のようにその力は使い方次第ですから、うまく利用してやろうということでしょうか。
この社号標の裏を覗くと「開運招福 水堀郷」とありました。現世利益的な願いで本尊とされた可能性は高そうです。
社殿と境内社
入母屋造の素朴な社殿です。中を除くと小さな本殿(新設された様子)がありますので、正確には覆屋ですね。古い時代の信仰の跡はまったくと言っていいほど見えませんでした。
しかし、境内には山岳信仰と思える石碑がいくつも並んでいます。「山丿神」は直球過ぎる。このあたりに山はありませんが、民俗学的には田の神は山から降りてくる=山の神と同一とされるので農耕神の意味合いでしょう。
軻遇突智は愛宕神社や秋葉神社の祭神として、やはり農耕や火災除けの御神徳があるとされます。火は護摩(祈祷)に欠かせませんし、もしかしたら呪術的な関係もあるかもしれませんね。
他には天満宮と「ほうそう神」、お稲荷さんなども見えました。時代までは分かりませんでしたが、石の状態からすると遡れるのは江戸時代の頃まででしょう。
詳細についてはほとんど分からないものの、旧社格が村社ということは水堀の方々にはお馴染みであったはず。しかし、明治初期の日本の宗教改革で実態が隠されることになったはず。もしかしたら江戸以前については永久に不明かも…
『茨城県神社誌』によれば、宮司は金村別雷神社と同一なので、今でも兼務社なのかもしれません。そうした切り口からもうちょっと調べてみたいな〜と思っております。
・水堀の面足神社は鎌倉時代の創建といわれ第六天をお祀りしていた。
・第六天は仏教における「魔王」。明治の神仏分離以降は日本神話のオモダルとされた。
・境内から第六天時代をうかがけるものはない。
茨城県神社誌|茨城県神社庁
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。