wata
- 由緒とご祭神
- 三浦杉の伝説について
- 御朱印のいただき方
歴史というのは過去にあった出来事なので基本的には変化しません。しかし、新たな調査や研究によって見直されることは少なくないんですよね。わたしがいつもお世話になっている『茨城県神社誌』は県内の神社の歴史が網羅された(はずの)とても頼りになる本ですが、いつかは「時代遅れ」になってしまうかも。。
今回は常陸大宮市の吉田八幡神社をご紹介します。じつは江戸時代くらいの創建かも〜と思っていた神社ですが、近年の調査によって中世まで遡れるとわかりました。「三浦杉」でも知られる有名な神社なので、ぜひ参拝の参考にしていただけたらと思います。
吉田八幡神社とは
由緒
また、神鏡一面を奉納。祀田1石7斗2升2合
ご祭神は日本武尊と誉田別尊です。前者は景行天皇の皇子で神話で大活躍しました。後者は源氏の守護神として知られています。いずれも武神や戦神といった印象が強いかもしれませんね。
当社の由緒を見るとわかるとおり、はじまりは八幡宮でした。それが水戸藩の寺社改革によって吉田神社と改められたのですが、昭和期に氏子らが当局に根強い交渉をしたことで現在の社号となりました。
以前、わたしが調べた限りでは江戸時代以前の由緒はまったくと言っていいほど不明でしたが、令和2年の常陸大宮市文書館の調査によると当社には御正体4枚と柄鏡3枚が伝わっており、その中の八幡大菩薩とある御正体(御神体)には観応元年(1350年)の年記があるとのことです。つまり、社歴は14世紀までは遡れます。
他の御正体には金刀比羅大権現、妙儀大権現、石尊大権現とあり、柄鏡には丸に橘紋が見えたとのことです。尊号から神仏習合が色濃いことがわかりますね。また、正徳2年(1712年)の神額には「八幡宮」とありますので、水戸藩による神仏分離は形式的に過ぎなかった可能性があります。
境内社の稲荷神社の神額「正一位稲荷大明神」は水戸藩の立原翠軒が揮毫したことが分かったといいますし、今後も新たな調査により由緒が追加されているかもしれませんね。とても楽しみです!
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アクセス
最寄りICは常磐道の那珂IC。下りてから約33km。時間にして40分ほどかかります。けっこう遠いですね。
一の鳥居前に駐車できますが、近くの三浦杉公園に停めることをおすすめします。神社まで徒歩で2〜3分といったところです。
名称 | 吉田八幡神社 |
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住所 | 茨城県常陸大宮市小田野172 |
駐車場 | あり |
三浦杉公園
神社の鳥居前に駐車できないことはないのですが、安全性を重視するなら三浦杉公園がおすすめです。公園は広いだけでなく意外にも美しいのです。地元の方々がしっかりお手入れしているのでしょう。
せっかくなので公園のど真ん中を通って神社へ。社叢は杉が目立ちますが、遠目だと桜も見えます。というか、だいぶ立派なのでできれば間近で見てみたいものです。
鳥居
ここから先が吉田八幡神社の境内です。立派な社号標ではありませんか。美和地区には高部の諏訪神社や鷲子山上神社など著名な神社が鎮座しておりますが、こちらも負けておりません。
一の鳥居は神明式で昭和41年に建てられました。大鳥居と言って差し支えないほどこちらも立派です。先には薄っすらと石段が見えますよね。参道であり山道のはじまりです。
とはいえ、当社の参道は入り口で見た雰囲気と違って緩めです。これならちょっと頑張ればだれでも参拝可能でしょう。ただ、後に紹介するように残念ながら社殿のすぐ前までは行けないようになっているのです。
こちらが二の鳥居。巨木に育った杉に囲まれているので、このあたりまで来るとだいぶ暗く感じます。ここで注目してほしいのが鳥居に掛けられた扁額ですね。
三浦杉、吉田八幡神社、当代宮司衆議院議員…宮司さんは議員さんだったんですね。当社に限らず神職や僧侶の方が政治活動されることはたま〜に見かけますよ。個人的には大変結構なことかと思います。
しかも東日本大震災のときに経済産業委員会理事等を務められていたということで復興に大いに貢献されたのではと思います。
ちなみにこの鳥居の右側に社務所があってお守り等が頒布されています。ふだんは無人で稼働するのはお正月や祭日に限ったことでしょう。社宝の説明などもありましたので、初参拝であれば目を通してみるといいですよ。
当社のご祈祷は氏子と氏子の紹介者のみに対して完全予約制で行われます。
社殿
二の鳥居をくぐって少し進むとこうした光景が広がっています。最後の石段の前には小さな柵が設けられていて通行止め。写真右下の立て札にあるように、遥拝所にてお参りすることになります。
参道沿いに幹が見える三浦杉は特別な巨木です。幹だけでなくその枝も非常に太く重いため、風などで落ちた際には参拝者の怪我につながるおそれがあります。そうした安全上の理由から進入禁止となっているそうです。
遠くに見える拝殿の正面には神紋の佐竹扇。当地を支配していた小田野氏は佐竹氏の一族。永正元年(1504年)の佐竹の乱では佐竹宗家に加勢した功績があります。ただし、その相手は同じ一族の山入氏。小田野氏の祖である自義は山入師義の子なのでこの時代は一族にとって厳しい内乱があった時代です。
佐竹氏は関ケ原の合戦のときの態度を問題視されて、江戸時代初期に今の秋田県は国替えとなります。しかし、家臣団には残留した者も多く、その中には「三浦大介の四天王」と称される、河西源次衛門貞治、平塚藤次衛門貞春、和田平治吉光、小室太次郎盛春もいました。
三浦氏ゆかりの家臣団は常陸国に残ったため、三浦氏にまつわる伝説を発信していたかもしれません。その辺りに後ほどご紹介する妖狐伝説も関係するのではと思います。真相はいかに、ですけどね。
参道右手のこちらが遥拝所。賽銭箱と御幣がありますので、こちらからご祭神である日本武尊と誉田別尊にお参りです。いずれも力強い武神ですから、個人的には健康の維持や勝負事を後押ししてくれるのではないでしょうか。
賽銭箱の右側にあるのは当地「小田野」のパンフレット(令和4年作)。こちらは一般的なそれとは出来が違います。小田野に「三浦伝説の里」のキャッチコピーを付けており、内歴史と伝説を織り交ぜた興味深い内容です。
行政が作成する資料としてはあまり見られない神仏習合時代の記述や水戸藩の寺社改革にも触れていてとても楽しめました。数はかなり限られていると思いますので、もし見かけたら手にとっておきましょう。
本殿は市指定の文化財です。
三浦杉
お参りを済ませたら改めて三浦杉についてご紹介しましょう。大きさは周囲約9m、樹高58mと超巨大。しかし、注目されるのは杉にまつわる伝説です。前述の小田野のパンフレットから引用します。
伝説によると、久寿二年(1155)”九尾の妖狐”退治の勅命を受け三浦大介義明は相模の国から四人の共を連れ、八幡宮に妖狐征伐を祈願し、烏帽子掛峠で休み、那須野が原に向かった。
しかし妖狐は手ごわく、人力に余るものがあった。思い余って八幡宮に祈願したところ、大神に一策を授けられて、討伐できた。そこで、お礼に二本の杉を植えた。中世では「鎌倉杉」と呼び、それぞれ男杉・女杉と称されていた。元禄8年(1695)光圀公の美和巡村の8月12日、八幡宮に参拝し「吉田神社」に社名を改めることを謀り、二本の杉の巨木が「鎌倉杉」と呼ばれていたが、三浦介手植えの杉と言われ、「三浦杉」と命名したと伝えられる。
まさに伝説の杉!妖狐退治に一役買ったということで、じつは妖怪ファンにも広く知られているのではないでしょうか。茨城ではその後日談として殺生石に化けた妖狐を成仏させた和尚の物語が伝えられています。
和尚の名は玄翁。お経を唱えてから杖で殺生石を砕いたことから、石を叩く金槌を「玄能(玄翁)」と呼ぶようになったといわれております。晩年は結城市の安穏寺で過ごしたとか。和尚のお墓はお寺のすぐ近くに建てられています。事実かどうかはともかくとして、なんとも面白いお話ではないでしょうか。
そんなわけで二本の三浦杉は樹齢800年以上といわれています。このような巨木が並ぶことはそうそうありませんから、ありがたいことです。男女ということは対となる陰陽の存在であり、あわせて太極を意味するのでしょうか。
もしかしたら子宝や縁結びのご神徳があるとされたかもしれませんね。武神を祀る神社でありながら、きっと庶民にも親しまれた神社だったのではと思います。
なお、妖狐と対決の舞台となった那須と小田野はいずれも那珂川沿いに位置していて、街道や那珂川によって古くから人の移動がありました。それにより地域をまたがった物語が展開されたのかもしれません。常陸国の那珂川沿いに三輪山の神々が祀られるのもそうした理由によるのでしょう。いみじくも小田野は旧美和村に属しています。
御朱印
吉田八幡神社の御朱印です。現在は書き置き(印刷)のみかと思います。創建時の社号に戻っているのが感慨深いですね。
拝受場所は社務所ではなく宮司宅になるでしょう。社殿に向かう参道の途中で宮司宅へ分岐する道があります。
まとめ
この記事のまとめ
- 創建当初は八幡宮。後に吉田神社となり、昭和期に現在の社号となった
- 三浦杉は三浦大介が九尾の狐を退治した際のお手植えといわれる
- 御朱印は宮司宅でいただける
参考文献
茨城県神社誌/茨城県神社庁
茨城県の地名/編:平凡社
wataがいま読んでいる本
マンガで『古事記』を学びたい方向け
神社巡りの初心者におすすめ
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。