陰陽神社と霊獣 貔貅|常陸大宮市

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wata

ども!いばらき観光マイスターのwata(@wata_ibamemo)です!

この記事でわかること
  • 由緒とご祭神
  • 霊獣の貔貅ひきゅうについて
  • 御朱印のいただき方

「伝説の」や「霊獣」といった言葉を聞くとワクワクしませんか?

オラ、ワクワクすっぞ!

今回は伝説の霊獣貔貅ひきゅうについて。(以降:ヒキュウ)ヒキュウは風水をご存知の方には知られているようですね。試しにamazonで検索してみてください。金色の置物が大量にでてきます。開運アイテムとしてご活躍のようで。。。

そちらも魅力的ですが、茨城にはヒキュウのいる神社があるんです。それが常陸大宮市の陰陽いんよう神社。なぜヒキュウ?そもそもヒキュウってなに?神社と併せてご紹介します♪

MEMO

社号の陰陽を「おんよう」と読むともいわれます。

陰陽神社とは

由緒

寛文元年/1661年
創建
 水戸 徳川二代藩主、徳川光圀公(義公)が寛文元年 (1661)に領内御廻村の時、一里ほど南の上大賀村念仏塚から陰陽山の大岩を遥かに望見したとき戌亥(北西) の方から径一尺ほどの金色の玉が飛んできて義公の十間ほど前に落ちて消えた。
 義公は庄屋に戊亥の方の岩山を案内させ、この陰陽山に 登り親しく御覧になられ非常に感動され、この石をそれまで呼ばれた夫婦岩を改名し陰陽石と名づけられて、二石並んでいる石の大きさを測らせ、東側の小ぶりの石(高さ10m横23m厚さ 2.5m)を陰石、西側の大きい石(高さ8.8m横 5.6m厚さ1.9m)を陽石と名づけられた。
陰陽神社/茨城県神社庁
※当初は陰陽大権現と称した
元禄4年/1691年
寄進および社殿造営
祭礼の方式が定められ、社領石高1石4斗2升7合が寄進される
※境内の案内によればこのときが創建ともいわれる
寛政10年/1798年
貔貅像奉納
現存の貔貅像が奉納される(像の台座の案内により)
文化2年/1805年
裁許状を授かる
文政2年/1819年
本殿改築
文政5年/1822年
裁許状を授かる
安政5年/1858年
裁許状を授かる
明治6年/1873年
村社列格
明治40年/1907年
供進指定
昭和12年/1937年
祭礼(火消行列)中断
昭和12年/1937年
祭礼中断
3年毎に開かれていた祭礼が種々の事情で以降中断する
昭和27年/1952年
宗教法人設立
平成21年/2009年
陰陽石崩壊
東日本大震災により神体の陰陽石が崩壊
平成24年/2012年
貔貅像奉納
現存の貔貅像が奉納される(像の台座の案内により)

ご祭神は伊弉諾いざなぎ伊弉冉いざなみです。記紀では国生みと神生みをした二神で夫婦円満や子宝のご利益があるといわれています。

陰陽神社は水戸藩主の徳川光圀公(水戸黄門・義公とも呼ばれる)なしで語れません。神社と創建と命名に深く関わっています。

もとあった巨石は夫婦岩と呼ばれていました。それが水戸黄門によって陰陽石と名付けられ、やがて石をご神体とする陰陽神社が誕生ということですね。

このお話は1857年(安政4年)にお上に奉られた陰陽山旧記の記述が元かと思います。それによると陰陽山は小口与兵衛の持ち物でしたが、多くの方で信仰したいという理由で光圀公が譲ってもらったのだとか。

ところで、陰陽ってなんでしょう。この場合は古代中国の思想で、万物は陰陽の2つがバランスして成り立っているとする考え。例えば、光と影、北と南、男性と女性、といった感じで何事も表裏一体と捉えます。

そう考えると夫婦岩と陰陽石はほとんど同じ意味ですね。光圀公がこうした命名をした背景には、光圀公が陰陽説を説く『易経』を儒教の経典のひとつとして学んだためかと思います。

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人間もまた陰陽の賜物。陰陽石を祀ることで子孫や土地の繁栄に結びつけたかったのかもしれませんね!

アクセス

陰陽神社は旧山方町の山の上。(陰陽山:標高233m)JR水郡線の山方駅から車で5分ほどのところに”一の鳥居”があります。山に登るので社殿まではさらに15分ほどかかります。

名称 陰陽神社
住所 茨城県常陸大宮市山方4927番地
駐車場 あり
Webサイト 茨城県神社庁

参拝まで

陰陽山 森林公園

陰陽神社の駐車場は安心の広さ。一の鳥居から入りたい場合は、陰陽山 森林公園の駐車場がいいでしょう。週末でも広々。キレイではありませんがお手洗いもあります。

陰陽山森林公園入口

なるべく社殿に近いところに駐車したいなら、上の写真の通路を進んだ二の鳥居前に停められます。そこからはレッツ登山!

二ノ鳥居

・・・ここから先は気を引き締めてお進みください。暗くて足元が安定しません。地面がぬかるんでいたり落ち葉ですべります。

手水舎
社殿への道のり

距離は長くありません。わたしはゆっくり15分ほどかけましたが、10分ほどで登ることも可能かと思います。

本殿

陰陽神社の社殿

山頂付近にこちらの本殿が鎮座しております。神体の陰陽石はもちろんこの社殿に収まりませんので、便宜上の建物という位置づけでしょうか。

その手前にある2つの像が後述するヒキュウ(貔貅)です。なんとも怪しいフォルム!

陰陽神社社殿の柱

見ての通り柱には細かな紋様が彫られており、丁重に扱われているのがわかります。それだけ人びとの願いも強かったということなのでしょう。

ヒキュウ像

ヒキュウ像阿
ヒキュウ像吽

陰陽神社といえば御神体の陰陽石とヒキュウ像。像は本殿の前に狛犬のごとく鎮座しています。口の形も狛犬と同じ阿吽になっていますね。(写真でわかりにくいですが、向かい合って座っています)

このラブリーなビジュアル。まるでウナギイヌという声もありますが、愛嬌があってわたしは好きですね。

平成24年に建てられた像の台座には陰陽神社とヒキュウについて簡単な説明がされていました。そこには当社が元禄4年に創建されたことや社号が黄帝陰陽にちなんでいることなどがあります。

また、ヒキュウは朱舜水が日本にもたらしたとか皇帝を守護する存在であるとか書かれていました。社伝と微妙に違う内容なので真実はいかにといった感じです。

そんな貔貅ですが、どんな存在なのか普通の人は知らないはず。一応辞書にもあるのでご紹介します。

ひ‐きゅう〔‐キウ〕【×貔×貅/×豼×貅】の意味

古代中国で、飼いならして戦いに用いたという猛獣。貔は雄で、貅は雌。
goo辞書

ヒキュウの歴史はかなり古く、司馬遷の史記にあるといいますから、軽く二千年ほど遡れます。本来は雌雄が別とのことですが、紀州文化振興会のサイトにそのことが触れられていました。

 貔と貅は本来神獣の雄と雌を別々に指した語だが、南京市の辟邪の解説を見るまでもなく、今日では「貔貅」は一語として神獣の一種を意味する。これはおそらく、貔貅と天禄を左右一対にした時代があり、片方を貔貅と呼んだからであろう。
六・貔貅の雌雄と陰陽原理/紀州文化振興会

陰陽を表す雌雄でしたが、別の霊獣と対をなすことで雌雄が一体化したということでしょう。陰陽説とは密接な関係があるようですね。さすが古代中国の霊獣。

また、面白いことにヒキュウには開運のご神徳があるとされているようです。『プロテメテウス』から引用します。

貔貅は避邪や天禄とも言い、中国の古代より語り継がれている伝説の凶猛な瑞獣です。貔貅は肛門がないため天下の財を飲み込むが漏らさず、神通特異であるために財を招き宝へ進み、四方の財を吸納すると言う意味を持っています。同時に邪気を避けるので身に帯びると幸運に恵まれると言います。このため貔貅は古代五大瑞獣の一つとされています。因みに残りは龍、鳳、亀、麒麟です。
プロメテウス/貔貅:中国神話上の金銀玉などの財宝をぱくぱく食べて集めてしまうおめでたい神獣

五大瑞獣を五行説における五気に分類するなら、龍=木気、鳳=火気、亀=水気、麒麟=土気だったはずなのでヒキュウは金気に分類されます。金気は文字通り金の気ですから手元にいれば金が貯まるということなのでしょう。

ヒキュウは伝説の存在なのでさまざまなビジュアルで描かれますが、金気に属するとなると白、堅い、毛が生えているといった要素を含んでいそうですね。実際にそのように描かれることは少なくありません。

なお、現在の像は高麗地方(朝鮮半島の北)で狩りに使われた犬をモデルにしているので足が身近く同体が長いそう。それ以前のヒキュウ像は盗難にあってしまったとか。無念ですね。

伝説の霊獣貔貅

Illustaration by hinako

せっかくなのでわたしもビジュアル化してみました。なんとなーくその姿かたちが参考になれば幸いです。

MEMO

現在のヒキュウ像は陰陽神社貔貅保存会と貔貅羽檄成就圓通會に寄進されたもの。

陰陽石

崩れた陰陽石

社殿の右手に進むと御神体の陰陽石。しかし、2011年の東日本大震災によって崩れてしまっていて原型をとどめていません。落ちかけたしめ縄が悲しい。

陰陽石周辺は極めて危険な状況です。近づかないでください。

山頂

陰陽山の山頂の風景

社殿から少し登ると山頂です。常陸大宮市の絶景を楽しむことができます!こちらはぜひ足を運んでみていただきたいです♪

『茨城県神社誌』によれば、神主が「頂上から見渡す限りの地を氏子にしたい」と申し出たので、それを受けた光圀公は野上、長田、上大賀、小貫、西野内、舟生、山方の七ヶ村を氏子とした総鎮守にしたとか。

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大盤振る舞いここに極まり。この景色がそのまま手に入るなんて、よほど光圀公は当社に期待したのでしょう!

五行説で考える『陰陽山祭礼』

陰陽神社には昭和12年に途絶えてしまった例祭『陰陽山祭礼』があります。祭礼は創建以来250年近く続いていたとか。

現在は『野上まつり』に引き継がれているのですが、往年の姿はかなり特殊で面白いのです。概要を『常陸大宮市のたからもの』から引用します。

 山方地域山方南皆沢に鎮座する陰陽神社の祭礼。祭式は徳川光圀が定めたと伝えられています。祭礼は、3年目ごとの丑・辰・未・戌年の3月14・15日の2日間、山方地内久慈川畔の神宝地(しんぽうち 現 神奉地)に建てた仮宮に、「お浜降り」と称して神輿が渡御(とぎょ)し、盛大に祭事を行っていました。

まず、その日程からして特殊。干支が丑、辰、未、戌の年に開催するのはどんな意味だと思いますか?

わたしは五行説に由来した祭りであって、論理的な理由に基づいているのではと考えています。五行説は古代中国で発祥した万物を五気(木火土金水)に分類して関係を説明する哲学です。

祭りのある年の干支は五行説において土気とされています。単に3年ごととするのではなく特定の干支の年というなら、そこに干支の持つ性質が重視されていると考えるのが自然です。

土気とは文字通り土の気であり、その本性は稼穡。要するに種まきと刈り取りを後押しするような気です。農業全般にですが、人間もまた土気とみなされますので五気の中でも万能とされています。

また、土気は気同士をつなぐ性質があるとされています。季節の終わりには必ず土気が生じ、それを「土用」といいます。前述の四干支の月には土用があり、特に有名なのは「土用の丑の日」のある未の月(旧暦6月)。

そうした土気の性質が人間関係と結び付けられて縁結びや夫婦和合のご神徳とされたのではないでしょうか。

もうひとつ祭りの約束事としてあるのが日程。かつては3月14、15日の2日間に渡ってありました。3月は辰の月なのでやはり土気。その月の真中ということは水気の三合といった思想かもしれませんね。

水気の三合において辰は水気の墓。水気が留まるとされ、水が不足しないといったご神徳に繋がります。龍(辰)に雨を降らせる伝説が多いのは、五行説との関係も要因かと思います。

wata

五行説は陰陽五行ともいわれるほど陰陽説と密接な関係です。祭祀に深く関係していると考えて不思議ではないと思いますよ!

御朱印

陰陽神社の御朱印

陰陽神社の御朱印

陰陽神社の御朱印です。頒布は令和4年(2022年)からはじまりました。

基本的に社殿周辺に宮司は不在ですので、社務所を兼ねた宮司宅で拝受することになるかと思います。県神社庁サイトの電話番号からお問い合わせください。

まとめ

この記事のまとめ

  • 徳川光圀(水戸黄門)により創建。祭神は伊弉諾尊と伊弉冉尊
  • 山頂付近の本殿前には霊獣・貔貅が狛犬代わりにいる
  • 御朱印は社務所兼宮司宅でいただける

参考文献

山形町のいまむかし/著:仲田安夫
茨城県神社誌/茨城県神社庁
茨城の地名/編:平凡社

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