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- 由緒とご本尊
- 「三日月上人」の伝説
- 御朱印のいただき方
常陸太田市の集中曝涼は市内の珍しい文化財を公開するイベントです。例年2日間にわたって行われますが、じつは各所が2日間とも公開するとは限りません。
松栄の香仙寺は土曜日の1日だけ。それだけに貴重であり、多くの方が関心を持っています。今年はわたしも訪ねられたのでその様子を紹介いたします。
茨城を代表する浄土宗の寺院である常福寺(瓜連)に関連する三日月上人のお話も載せますので、ぜひ覚えていってください!
香仙寺とは
由緒
御本尊は阿弥陀如来です。お参りしたら阿弥陀仏に帰依(心から頼る)するという意味の「南無阿弥陀仏」のお念仏を唱えましょう。
当寺の由緒は創建前のエピソードが重要であり、事前知識も要するのでちょっぴり難しい。よく知られている聖冏と直牒洞のお話は創建前のこと。その聖冏の十三回忌に報恩のため当寺が建てられたのです。
開基となったのは常福寺(瓜連)三世の明誉了知。聖冏が常福寺二世だったため先代にゆかりのある地で教えを広めることにしたのでしょう。
聖冏は優れた学識から常福寺の檀林(僧侶の学校)としての基礎を築き、浄土宗が後世まで常陸国で発展するきっかけとなりました。茨城県民としては知っておきたい人物ではないでしょうか。
ちなみに聖冏は現在の常陸大宮市の岩瀬の地で生まれ、8歳で常福寺に入り、46歳で住職となりました。直牒洞に籠もったのは明徳元年(1390年)から10年間。佐竹の乱を逃れてのことと伝えられています。
また、当寺には次のようなお話が伝えられています。
寺伝によれば、了誉聖冏上人の十三回忌以前に、源頼朝の妻政子の庇護により新善光寺が創建された。後に香仙人なる人物が居住したが、冏師十三回忌の折に浄土宗寺院となり、香仙人の名をとり「不軽山荘厳院香仙寺」と称するようになったという。
由緒沿革/香仙寺(公式)
当地が「善光寺」と呼ばれる由来となった伝説だと思います。不軽山と称する前は「阿弥陀山」だったともいわれます。
善光寺(長野県)といえば一光三尊阿弥陀如来を本尊とする大寺院。江戸時代には伊勢神宮に次ぐほどの参拝者でした。現世利益があるとする善光寺信仰はかなり古くから存在し、主に聖によって広められたといいます。
善光寺(公式サイト)によれば、鎌倉期には将軍頼朝や北条一族も信仰し、さらに信仰が全国展開したことにより各地で新善光寺が建立されたとあります。寺伝はそうした寺のひとつが当地にもあったということなのでしょう。
集中曝涼の動画では当地が佐竹氏の領地であったことから、当時の東国の武家に信仰された阿弥陀信仰の霊場があった可能性を挙げています。それが聖によって伝わった善光寺信仰なのかもしれません。
寺伝にしろ後述する民話にしろ中世は戦乱で悲惨だったと伝えていますので、万人を救済する阿弥陀信仰は支持を集めたことでしょう。そうした土台をもとに阿弥陀如来を本尊とする浄土宗が広まったとも考えられますね。
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アクセス
最寄りのICは常磐道の那珂ICか東海スマートICは。下りてから約15分です。道中は整備された道路なので快適かと思います。
最寄り駅はかなり遠いので電車やバスでのアクセスは難しいですね。車一択と考えてよいでしょう。駐車場は充分な広さなのでご安心ください。
名称 | 不軽山 荘厳院 香仙寺 |
---|---|
住所 | 茨城県常陸太田市松栄町615 |
駐車場 | あり |
Webサイト | 公式サイト |
山門
駐車場には非常に多くの車が停まっており盛況の模様。比較的足を運びやすい場所にあるのも理由でしょう。
境内はこちらの山門をくぐってから。山門は平成初期に本堂や庫裏と合わせて新築されたそう。歴史ある寺院ですが、建物自体は近年に建てられたので若々しい印象です。
山門の足の部分には巨大なわらじ。このサイズを履ける人などいませんからどんな由来かと見てみたら次のようにありました。
わらじ
このわらじは、松栄子ども会(旧すずらん子ども会)が戦後、日本の復興・世界平和を祈念して鎌倉大仏(高徳院)様に奉納したのが始まりと聞いています。
現在も三年毎に、鎌倉大仏に奉納しています。
三年前に奉納されたわらじが、松栄の地に戻りここ香仙寺で お陰様 お疲れ様 お休みしております
どうして「わらじ」なんだろう、と疑問ですが、茨城新聞(2023年2月26日付)で次のように説明されていました。
1951年、地域の産業祭に同子供会が大わらじを出品。産業祭後に「大仏さまに諸国行脚の際に用いてもらおう」と同院に奉納したのが始まり。それから同子供会が3年に1度、70年以上にわたって奉納している。2020年は前年の台風19号(東日本台風)で被災した同地域の「洪水被害からの復興」などの願いを込めて制作し、奉納した。
【茨城新聞】茨城・常陸太田の子供会と保存会 心込め大わらじ編む 鎌倉・高徳院に奉納へ
当初、わらじの奉納は五行説に由来するのかと考えましたが、昭和期のことなので上記のとおりかと思います。仏、しかも如来が歩いている光景はちょっと新鮮。でもそうやって阿弥陀さまのご利益にあやかれるといいですね。
現在、わらじは松栄子ども会だけでなく松栄わらじ保存会も一緒に行っています。
本堂
例年の集中曝涼だと香仙寺の寺宝公開は1日限り。貴重な機会なので訪れる方が多く、スタッフの解説に熱心に耳を傾ける方もたくさんいらっしゃいました。
本堂では専門家の方々が公開中の直牒洞について解説。歴史的な内容ではなくハイテク機器を使った解析結果をまとめたもので、他所とは一風違った面白さがありましたね。
なんでも機器から発する専用の光を直牒洞の壁面にあてることで壁までの距離や形状をデータ化できるのだとか。そのデータをもとにパソコン上で直牒洞を再現し、肉眼ではほぼ判別不可能な部分まで解析していました。
壁面の五輪塔については現地に行っても見えませんので、なんとも玄人向けでありがたい企画だったかと思います。
県指定天然記念物「香仙寺のシイ」
本堂から直牒洞に向かう途中、右手に見えるのが天然記念物のシイです。
幹周り7.2m、根元部9m、最大枝張り12.3mと巨大。推定樹齢が640年といいますから、聖冏よりもやや早く植えられたことになります。
このシイは香仙寺の創建から今までを知っているわけですね。
直牒洞
本堂の右手に進むと了誉聖冏上人が十年ほど籠もって『直牒十巻』を著したと伝えられる直牒洞です。正確には3つの横穴墓のうち中央の穴のことをいいます。
何度か訪れていますが、ふだんは門が閉じられていて近づけないため壁画の阿弥陀三尊を見ることは極めて困難だと知っています。明かりまで用意してある集中曝涼は本当に貴重な機会ですね。
直牒洞はもともと7世紀頃に作れた横穴墓でした。それが中世に入って宗教施設として手が加えられ、ほぼ形を変えずに現代に伝わっています。岩窟なので遺りやすいとはいえ中世の信仰をそのまま拝観できると思うとすごい!
奥には阿弥陀三尊像が彫られています。中心が阿弥陀如来、左側が勢至菩薩、右側が観音菩薩です。参考までに教育委員会の解説を引用します。
阿弥陀三尊磨崖仏(あみださんぞんまがいぶつ)、石造、浮彫(うきぼり)、高さ約3m、幅約3.7mです。
香仙寺(こうせんじ)本堂背後の直牒洞といわれる3窟の中央窟奥壁に、薄肉彫(うすにくぼり)で、法衣(ほうえ)を偏袒右肩(へんたんうけん)にまとい、阿弥陀定印(じょういん)を結び蓮華座上に結跏趺坐(けっかふざ)する中尊と、左右にほぼ同形の脇侍菩薩像(きょうじぼさつぞう)がそれぞれ二重光背(にじゅうこうはい)の中に配されています。3尊とも幅広い面相、太造りの体部など平安時代後期の風を伝えていますが、地方化した表現もみられ、造立は鎌倉時代と思われます。
直牒洞の石仏/茨城県教育委員会
中世には入口から奥壁に向けてせり上がるように彫られたり、また天蓋のように天井が広げられたりと演出的な要素が見られます。そうした加工は平安末期から鎌倉初期にかけてとされるので聖冏が籠もる前からあったということですね。
前述の集中曝涼の動画にもう少し詳しい解説がありますので、興味のある方はぜひご覧ください!
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民話『三日月上人』
直牒洞には不思議な民話も伝わっています。なかなか興味深いので『金砂郷の民話』より引用して紹介します。
むかし、松栄村の東に、大きな岩穴がありました。この岩穴は、いつごろ どこの だれが、つくったのか分かりません。広い岩穴の奥のかべに、三尊の仏様が、薄く彫られています。その仏さまは、けずり消されても、また、現れるといわれます。奥の穴は、信濃(長野県)の善光寺につながっているから、ここでお祈りすれば、善光寺にお参りするのとおなじことと、いわれてきました。
当時、佐竹さまが、この地を治めていました。戦になると、この里の人びとの中には佐竹さまにつかえて戦に出る人もありました。戦に負けたときなどは、この岩穴にかくれて、傷を治す人もありました。ここにかくれていた、佐竹さま一族の女や子どもが自害したともいわれています。
このような災いを心配された瓜連の六夜尊の了誉上人さまは、この岩穴で、ほし柿をたべ、水をのみながら飢えにたえて、十年ほどおこもりになりました。
西の山がむらさき色になって、くら闇があたりをつつむころ、金色のあかりが、岩穴からぼんやりもれていました。上人さまの弟子が、岩穴をそっとのぞくと、上人さまの目は、三日月さまのように、ほんのりとしたあかりを出していました。そのあかりは、本やすずりなどを照らしていました。上人さまは、『選択伝弘法疑鈔』という、むずかしい本を読んでおられました。天井の岩から落ちるしずくを、すずりに受けて墨をすり、読んだ本の大切なことをまとめた『直牒十巻』という本を書いておられたのです。
やがて、この岩穴は直牒洞といわれ、上人さまは、三日月上人ともいわれるようになりました。
金砂郷の民話
あくまで民話ですから、どこまで確かなのかはまったくわかりません。しかし当地が善光寺と呼ばれる所以や上人と「三日月」の関係が説明されているのは面白いですよね。
上人は常福寺が浄土宗の檀林として存在感を高めるきっかけとなった人物です。その上人を「三日月」と呼んだのは単に伝説のせいでしょうか。
三日月とは月齢(月の満ち欠け)によって見える月の姿であって、基本的には旧暦の月の3〜4日目に現れます。旧暦の日付は月の周期と連動していますから毎月のその日はだいたい三日月となります。
さて、月齢をよく見てみると、26〜27日にかけて見える月は3〜4日目の月を反転させたような形をしています。つまり向きこそ違えど三日月には違いありません。
明治以前は各地で月待講と呼ばれる信仰が盛んでした。月齢ごとにさまざまな神仏を信仰しており、26日の夜(あるいは夜明け前)には阿弥陀三尊や愛染明王を主尊とする二十六夜講が行われました。
要するに「三日月」は旧暦26日にも見える月の形であり、同日の月待講で拝まれる阿弥陀如来に通じています。阿弥陀如来は浄土宗および浄土真宗における本尊ですから二十六夜講と浄土教は深い関係といえます。
常福寺が二十六夜尊と呼ばれることと同寺で上人の命日である旧暦9月26日と27日(午前中まで)に大祭があることは阿弥陀如来と上人を親しい存在としていることを示していると思うのです。
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龍神宮
香仙寺で個人的に心惹かれるのが龍神宮。お寺に神社。神仏習合の名残を感じられるのがいいではないですか。
案内の石碑には次のようにありました。
龍神宮は天災諸厄を除き、五穀豊穣、水の神の守護神として往古当松栄の北端阿武隈山系の源流を発する、久慈、山田、浅川の諸流を一望に納めた香仙寺の丘陵に鎮座する。
古来神威は当山の未来永劫の諸厄を除き、農業に従事する民の五穀豊穣を願うものなり。
また、南丘権現山に対座し、嶺と海とを勘合し香仙寺に消えする檀信徒の修道無難、道念増進の当山の平穏を守護するものなり。
後世、明治神仏判然令の折り、幾度か他に遷度をこい願いしも神威これを拒み、今日に至る。
古しい当字が川島村と呼ばれしな、右歴史のしめすところに因る。
毎年四月、六月、十一月の十五日、龍神宮の例祭が執行される。
平成十二年老朽化に伴い、松栄上組龍神講一同一念発起により、龍神宮を再建す。
古くから龍神信仰が根強いようです。例祭の日付から五行説の「三合」の思想が考えられますが、わたしには解読できず。無念。
頑張って石段を登った先にはこちらの社殿がありました。一般的な神社と異なり、周辺に小祠などは見られず。いわゆる神道とは少し異なる民間信仰に属するかと思います。
ところで、浄土宗は専修念仏というくらい念仏重視ですから、本尊以外の信仰についてはよく知られていません。法然の考えは念仏を最重要としながらも「念仏に影響しなければ別の信仰をしても良し」
そうした現実的な考えを持っていたからこそ多くの人々に理解されたと思うんですよね。異質とも思える境内の龍神宮を参拝して法然の徳の高さを再認識したのでした。
御朱印
香仙寺の御朱印です。なんと中央に直牒洞の阿弥陀三尊が…!
浄土宗と浄土真宗のお寺では本尊の阿弥陀如来の書き入れがほとんどですが、こうした個性的な御朱印もいいものですね。
集中曝涼の日は本堂内でご住職に書いていただけました。ふだんは本堂左手の庫裏でお声掛けしていただけるかと思います。
まとめ
この記事のまとめ
- 創建は室町時代、聖冏のゆかりの地であり跡を継いだ了知上人が開基となった
- 三日月上人とは直牒洞で目を光らせて読書していた聖冏のこと
- 御朱印は集中曝涼の日であれば本堂、それ以外は庫裏でお声掛け
参考文献
茨城の寺(二)/今瀬文也
茨城の地名/編:平凡社
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。
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