wata
弟橘媛の知名度はそこそこ高いような気がします。なぜか美人とされるのは、英雄日本武尊の后とされるからでしょうか。
県内では少数ながら姫を祀る神社がありますので、どのような信仰があるのかも含めて紹介させていただきます。というわけで今回は水戸市の笠原神社ですよ〜!
この記事でわかること
- 由緒とご祭神
- 「笠原」の由来
- 御朱印のいただき方
由緒
往古、藤山(現在の勝幢寺付近)に鎮祭
現神域に遷宮
弟橘姫一柱を祀っていたところを水戸藩主徳川光圀公の命により仏体を改め日本武尊を合祀。
大生郷天満宮より勧請して境内社を建立
亜鉛葺に模様替え
ご祭神は弟橘姫命と日本武尊です。姫は日本武尊の東征に付き従い、海神の怒りによって海路を塞がれた尊を救うため海に身を投げて荒れる海を鎮めたのでした。
日本武はともかく弟橘姫をご祭神とする神社は県内で稀。北茨城と大洗に弟橘姫神社(弟橘媛神社)がありますが、はじめは天妃尊(媽祖)を祀る神社でした。
さて、社号に「笠原」とあるので市内の笠原に鎮座かと思いきや、じつは茨城大学北の文京町にあります。ただ、まったく関係ないかといえばそうではない模様。
当社はかつて「笠原子易明神」と呼ばれており、これは現在笠原に鎮座する「笠原子安神社」とほぼ同じ。後者のご祭神は弟橘姫命と木花開耶姫命なのでやはりよく似ています。
旧鎮座地の藤山(現在の渡里町)は「富士山」に通じますので、両社の信仰は同じと考えてよいのではないでしょうか。「笠原」とは同地の土地神(産土神)を意味するか「笠原子安」から分霊されたのでしょう。
なお、笠原子安は社号にあるように子宝、安産、子育てなどが祈願されたそうなので、当社も同様と考えてよいでしょう。
私見ですが、当社の弟橘姫はかつて「仏体」だったというので、出産に関するご利益があるとされる十一面観音を本地仏にしていたのではと思います。
wata
昭和53年(1978年) シイ(市保存樹)
笠原の笠原子安神社は昭和27年まで「笠原神社」と号していました(遡ると「子安明神」)。
アクセス
最寄りICは常磐道の水戸北IC。下りてから約8分ほど。茨城大学の北側に位置しています。
鳥居の右側を入っていき社殿の手前に駐車できるようになっています。
名称 | 笠原神社 |
住所 | 茨城県水戸市文京町2-5-21 |
駐車場 | あり |
Webサイト | なし |
鳥居
一の鳥居がこちら。茨大の近くですし、見たことある方は多いかも。奥の社殿の辺りは暗がりとなっていて、なんとも神秘的。
ただ、その手前の参道は桜並木なので春になると大変美しい光景かと思います。この日は3月27日。赤い蕾がちょっとだけ見えますね。
天満宮
境内社の天満宮は昭和58年に建立なのでずいぶん新しい。
詳しい経緯は不詳ですが、菅原道真公の遺骨を祀るという大生郷天満宮(常総市)から勧請して創建。氏子から社殿や玉垣、絵馬掛等が奉納されたとありました。
やはり学業成就や入試合格といった学問に関する祈願が多いようです。絵馬を奉納する場合には境内に隣接する社務所兼宮司宅でいただけます。
スダジイ
社殿手前のシイは衝撃的。市の保存樹として指定されている巨木の概要は次の通り。(昭和53年時点)
- 樹高:25m
- 幹周:5.7m
- 推定樹齢:500年
少し不安定な形になっていますが、インパクトは絶大。ぜひその生命力を感じてみてください!
社殿
静かな境内で凛とした拝殿。神前にはいつも薄っすらと明かりが灯っていて幻想的な雰囲気がします。ひとたび境内を出れば住宅街と大学ですから神域の持つ力のようなものを感じますね。
入母屋造の前方には鳳凰か朱雀らしき彫刻。古代中国の思想において鳥は神への伝達役でした。つまり鳥は神に会えるし何かを伝えられる。
それを学んだ日本人は神前に鳥を添え境内の入口に「鳥居」を設けた、なんて説があるんです。鳥居は鳥が通るもの。だからそこを通れば鳥と同じ。神様に思いを伝えられるというわけです。
鳥は風にのって移動しますから、古くは風の中の字を鳥としたといわれます。つまり「風」を「鳳」と書きました。八卦の巽(東南)に鳥、風、入が配当されるのはそうした理由です。
本殿は応永3年の建立となっていますが、さすがに再建されていることでしょう。
神明造、男千木で鰹木一本。元は弟橘姫のみを祀りましたが、今では日本武の存在が強くなっていると思われます。
ヤマトタケルが当社の祭神に並べられるようになったのは元禄期。義公(水戸藩主・徳川光圀)の命でした。水戸藩では八幡社を改める際に静神社(祭神:建葉槌命)や吉田神社(祭神:日本武尊)とすることが多く、日本武尊に対して強い崇敬の念があるようです。
他の地域では見られないことなので興味深いですよね。ヤマトタケル信仰は水戸藩というより現在の水戸市周辺に見られます。言い換えれば旧那珂郡。『常陸国風土記』の時代、この地域は那珂国造によって統治されており、その祖は建借馬という人物でやはり風土記に記載されています。
建借馬の活躍は鹿工地域の行方郡で同地域にも日本武尊の伝説が多数ありますので、水戸周辺のヤマトタケル信仰の背景には那珂国造の存在があるのではと思います。
五行説で読み解く弟橘姫
弟橘姫命ご祭神にするのはとても珍しいので、どのような神様か気になりませんか?
といっても『記紀』や『常陸国風土記』を読む限り、ほとんど生身の人間のように思えます。それがどうして海神の怒りを鎮められたのでしょう。
これもまた謎めいていますので、いつもの五行説で読み解いてみます。
まずは名前から。姫は性別を意味するとして問題は弟と橘。このうち想像しやすいのは橘の方です。
橘は爽やかな香りがあり酸味のある実を付け、その前には白い花を咲かせる植物です。俳句の季語に使われる「橘」は実の方で晩秋を意味します。
つまり橘を五行説で配当すると秋、特にその終わりにある戌の月(旧暦9月)となります。戌は金気と土気を持つ十二支ですね。(橘の白い花も金気を意味する)
海神は怒りによって支配地である海を荒らして日本武尊と弟橘姫命の海路を塞ぎました。これも五行説で配当すると海神は強い水気、怒りは木気となります。
弟橘姫命が「橘」の力を持つということは、「相剋」の法則により金気が木気(怒り)を鎮め、土気は水気(荒波)を鎮めることに繋がります。ざっくりながら筋が通るのではないでしょうか。
ただ、わたしが気になるのは「弟」の方。『常陸国風土記』には姉の大橘比売が登場するので、それに対して年少を意味するように考えられますが。。橘が五行説に由来するような意味を持つなら、弟はもっと奥深い可能性があります。
こちらはまだ考えがまとまりませんので、もうちょっと検討してから紹介するとします。
最後に弟橘姫が戌に属し金気と土気を持つとするなら、健康長寿や商売繁盛といったご神徳も期待できます。ちょっと欲張って願掛けしてみてはいかがでしょう♪
御朱印
笠原神社の御朱印です。境内東の宮司宅でいただけます。
・ご祭神は弟橘姫と日本武。藤山に創建された
・「笠原」は笠原子安神社から分霊されたか笠原の産土神に由来すると思われる
・御朱印は境内東の宮司宅でいただける
茨城県神社誌|茨城県神社庁
茨城の地名|編:平凡社
この記事で紹介した本はこちら
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。