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今回は八千代町の八町観音こと新長谷寺をご紹介します。江戸時代中期に隆盛を極め21もの寺を支配下に置く大寺院でした。
四国の霊場のお砂を勧請した関東八十八箇所霊場の三十八番目です。お大師さまに想いを巡らせのんびりと参拝してみてはいかがでしょうか。
東国花の寺にも数えられ、4月下旬から5月上旬にかけてボタンが見頃を迎えます。
目次
由緒
結城朝光が鎌倉から持ち帰った十一面観世音菩薩像を安置するために建立
戦乱のため本尊を残して堂宇焼失。その後再建
本尊を残して再び堂宇焼失
元照金剛が本堂、客殿、鐘楼などを再建
住職の死去により、門末の一乗院の住職が兼務
茅葺き寄棟造から銅板葺き入母屋造に修繕 *『七福神の創作者』より
根本着色両界大曼荼羅、十一面観世音菩薩(本尊)、華形壇、板碑が町指定文化財になる
十一面観世音菩薩(御前立仏)が町指定文化財になる
観音堂が町指定文化財になる
十一面観世音菩薩(本尊)が県指定文化財になる
ご本尊は十一面観世音菩薩です。結城城の初代城主・結城朝光の守本尊といわれています。
境内の案内によるとこの本尊は仏師運慶作の長谷型観音。そして当寺は総本山である奈良の長谷寺、鎌倉の長谷寺に次いで「日本三大長谷寺」に数えられるのだとか。
ただ、町発行の「八千代の文化財」によると本尊は仏師院祥による貞和6年(1350年)の作と書かれています。これは仏像の保全修理で解体した際に内部に墨書銘があったことでわかりました。
とすると結城朝光の時代よりも100年以上は新しいということ。それでも充分な歴史を持っていて貴重ですよね。そのため調査後の平成20年に県指定の文化財へと格上げされています。
本尊は秘仏とされ、参拝者はもう一体の十一面観音像を御前立として拝観していたようです。ですが。。じつは御前立の方が古いかもしれません。鎌倉時代末期〜南北朝時代の作とされています。
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由緒は境内の案内と『茨城の地名』を参考にしました。「大久保家文書」については除いてあります
アクセス
JR結城駅から車で約20分。圏央道の境古河ICを下りて約20分です。ちょっと辺鄙な場所かも。
駐車場は境内入口の左手にあります。
名称 | 太光山 結城院 新長谷寺 |
住所 | 茨城県八千代町八町149 |
駐車場 | あり |
Webサイト | なし |
境内入口
山門はありませんが、立派な社号標が建立されています。
愛称の「八町観音」はなんだか素敵な響き。八町は結城朝光が当寺に八町の土地を寄進したことに由来し、それから同地を八町村と名付けお寺の愛称にもなったといいます。諸説あるそうですけどね。八町=24,000坪ですから非常に広大な土地を所有していたのですね。
由緒に朱印地10石と書きましたが、寺伝では時期不明ながら最大で15石。でも、「各村旧高簿」などによれば幕末の頃には20石あったとか。わたしはそちらにも信憑性があると思います。
また、当寺は江戸時代中期の最盛期に21の寺を末寺や門徒として支配下にしていました。『八千代町史』には次のようにあります。
寛永10年(1633年)の頃は3か寺の末寺を持つだけだったのに寛政7年(1795)には21か寺へ。八千代では最大級です!
大銀杏
境内に入ってすぐ左手に見える銀杏。参拝時は巨木だな〜と眺めるばかりでしたが、帰ってきて調べてみると不思議な伝説がありました。
「お乳の木の御利益」
むかし八町の村におゆきというひとりの若い母親がおりました。そのおゆきには生まれたばかりのそれはかわいい赤子がおりました。ところが赤子が生まれても、おゆきの乳房からはお乳がほとんど出てきません。お乳を与えることが出来ず日に日に弱ってくる我がいとし子の様子にたまりかねたおゆきは八町の観音様にお願いをしました。
そうするとある晩おゆきの夢に観音さまが現れ「銀杏の木の木根をけずり、それを米に混ぜて食べなさい。そうすればお乳が出るようになるであろう。」と告げました。
おゆきは急いで八町の観音様の境内にある銀杏の木根をけずり言われたとおりに食べたところ、不思議なことにそれまでほとんど乳のでなかった乳房は温かく張り、あとからあとから母乳が出てきました。
こうして赤子はすくすくと育ち、じょうぶな子どもに育つことができたと云います。それからはこの有り難い木根をいただいて帰る参拝者が絶えなくなったと云います。今でも大銀杏の下に立つと、乳房のようにふさふさと下がった木根を見ることができます。
古今東西 御朱印と散策
木根(気根)は古木に見られる特徴で枝や幹から下がった根のこと。女性の乳房のように見えることから乳と呼ぶこともあります。
古木はこのような伝説を持っていることが多いですよね。もともと観音霊場として人々の悩みや願いが集まる場所だったので、そのひとつがさまざまな変化をしながら語り継がれたのでしょうね
観音堂
本尊の観音像が安置される観音堂です。享保21年(1736年)に建てられました。寄棟造の銅板葺き、桁行3間(5.4m)、梁間3間、高欄附回縁のある欅造(一部もみ・ひのき・杉)です。
それがなんのこっちゃ、という方が多いと思いますが、とりあえずこの形が寄棟造りで観音堂の造りに多いと覚えておくといいと思います。
わたしは寄棟造好きですよ。神社ではほとんど見られない寺院特有の建築だと思いますし、立派なものが多いですからね!
ところで、茨城県内の文化財の保存や修繕に関わった一色史彦氏の著作『七福神の創作者』には、当観音堂について興味深いエピソードが載っています。それは文化財指定されるほど価値があるか相談されたときのこと。
観音堂は大正13年に茅葺きの寄棟造から銅板葺の入母屋造に変更されました。当時はそれが立派だと考えたのでしょう。しかし、屋根の厚みが大きく失われたせいで雨が廻り縁にはねるようになったそう。
古い建物はその特性を把握していない地域の方々が良かれたと思ってしたことによって、かえって状況が悪化してしまうことが少なくありません。そうした経緯で本舎部分は特に問題はないものの軒下は倒壊寸前の見た目。そこで建物自体に価値がないのであれば再建したらどうかと検討されていたのでした。
信徒の方々が一色氏を囲んでその話をしていると、ご住職が数本の垂木を持ってきました。大正時代の屋根替えで向拝を付け加えた際に取り外した垂木でして、そこには寄進者の名前がびっしりと書き込まれていたそう。
それから分かったのは観音堂は地元の方が中心となった観音講によって資金が集められて建立されたこと。さらに堂内の須弥壇は武州の十万人講が毎日勤行して資金を集めたとのことでした。
一色氏はそうした人々の思いを知ったので茅葺型銅板屋根の寄棟造、つまり建立当初の姿に戻す修繕を行ったのでした。この観音堂には数十年前にそんなドラマがあったのです。
観音堂の価値を発見できたのは、垂木のほかに来歴が詳しく書かれた棟札が残っていたためです。棟札が人々が大切にしていたことの裏付けとなり文化財としての価値をあらわしてくれるわけですね!
本堂
観音堂が立派なので一瞬忘れてしまいがちですが、本堂は観音堂の右奥に位置しています。
平成12年に建てられたので新しく見えますね。こちらには宗派の本尊である大日如来が安置されているのでしょうか。
とりあえず「南無大師遍照金剛」。自然豊かな境内を散策させてもらって立派な観音堂にお参り。ありがたいお参りとなりました♪
御朱印
新長谷寺の御朱印です。観音霊場に数えられていますのでご本尊の十一面観音がありますね。
観音堂の右手にある授与所でいただけます。ふだんは不在なのでインターホンでお声掛けする形になると思います。
・初代結城城主の結城朝光によって創建。本尊の十一面観音は室町時代の作
・江戸時代は21か寺を支配下に置く大寺院だった
・御朱印は本堂右手の授与所でお声掛けしていただける
茨城の地名|発行:平凡社
八千代町史|八千代町史編さん委員会
この記事で紹介した本
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