wata
2月中旬、常陸大宮市の地域おこし協力隊が興味深いブログを更新しました。なんと市内の神社で新たに御朱印の帆布を始めるとのこと。
しかも新たに神門を設けたとありましたので、これはもう一度お参りしておかねばと足を運ぶことにしました。
この記事では常陸大宮市の那賀鹿島神社についてシェアします。まだネット上に出回っていない情報もあるかと思いますので、ぜひ参拝の参考にしてくださいね!
この記事でわかること
- 由緒とご祭神
- 弁天社の伝承
- 御朱印のいただき方
由緒
当地の豪族・那賀太郎藤原通資が崇敬する鹿島大神を那賀城の東方に分霊して創建
南朝方の武士である那賀通辰一族の氏神として崇敬される
棟札に旦那として源義照能登入道常泰、石川計主助(主計助)光尚
後に文化財指定される本殿もこのとき造営
貴族院正二位勲二等大津淳一郎敬書
拝殿を撤去して神門を造営
ご祭神は武甕槌命です。由緒にあるように鹿島大神とも呼ばれ藤原氏の氏神としても知られています。藤原通資が祀ったのはそのせいかもしれませんね。
後に当社を氏神とした那賀通辰は建武3年(1336年)の瓜連合戦で活躍した南朝方の武将といわれています。通辰は当社の西に位置する那賀城を築城して居城にしていたとか。
『新編常陸国誌』によれば通辰は藤原氏です。しかし『大日本地名辞書』はそれを疑わしいとし、はっきりしません。個人的には那賀国造の子孫じゃないかな〜と妄想しております。
那賀国造の始祖は『常陸国風土記』で活躍する建借馬命といわれています。名前に「かしま」が入っていますから、鹿島大神とのつながりを考えちゃいますね。
文明年間の社殿造営に旦那として名前のある石川氏は那賀四郎盛道(那賀通辰の子)を祖とする那賀一族なのだとか。南朝の分が悪く、北朝に下る際に母方の姓に変えたそうです。
その後、石川氏は佐竹氏に仕えるようになり、当社は室町期以降石川氏および佐竹氏の支配下とされました。江戸時代になると佐竹氏は秋田に移封。当地への影響はなくなったと思いきや。。その後の棟札にも「常州佐竹中之郷」とあり、まだまだ根強い支持があったようです。
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昭和56年(1981年) 本殿(市指定)
棟札によれば当社の別当は野口村の蓮覚寺です。旧郷社の佐伯神社(旧御前山村)の別当も務めましたが、元禄期に廃寺となりました。
アクセス
常磐道の水戸北IC、もしくは那珂ICを下りて約30分。県道12号沿いに鎮座しています。
駐車場は集会所(那賀集落農事集会所)と一体となっており、ほぼ確実に駐車可能です。
名称 | 鹿島神社(通称:那賀鹿島神社) |
住所 | 茨城県常陸大宮市那賀66 |
駐車場 | あり |
Webサイト | なし |
鳥居と社号標
意外にも立派な両部鳥居が置かれていました。鮮やかに染まって美しいですね。ただ、鹿島神社としては少々珍しいようにも思います。社伝ではわからない独特の信仰があったのかもしませんね。
社号標を揮毫したのは大津淳一郎氏。だれだ、と思って調べてみたら驚くほど立派な方でした。明治から昭和初期に活躍した政治家ですね。衆議院として13回当選し、貴族院まで務めました。
当社とはどのような関係だったのでしょう。よほど懇意でなければ筆はとらないと思うのですが。
神門
2021年まであった拝殿を廃し神門へ。時代に合わせてスリム化したということでしょう。輝いて見えるのはいいですが、時が経って落ち着いた色合いになるのを楽しみにしています。
参拝者は賽銭箱を前に直接本殿を拝観できるようになっています。一般的に本殿はその全体像を見ることはできませんから、珍しくもありがたい造りですね。
この日は係の方が終日いらっしゃって側面の扉から中に招いてくださいました。さすがに瑞垣の中で本殿を拝見した経験はほとんどありませんので興奮しましたよ〜!
本殿
立派な本殿です。元和6年に建立されましたので400年を超える歴史です。
よく見ると社殿のあちこちが朱色に染められています。じつはかつては天満宮の社殿だったいう説が。それなら色合にも納得ですね。赤い鳥居も天満宮と関係あるかもしれません。
彫刻は左甚五郎作と伝えられる見事なものです。東面には福禄寿と布袋、西面には大黒と恵比寿らしき画がありました。残りの三柱もどこかにあるのでしょうか?
社殿の後部にはつがいらしき鳥の彫刻。どんな鳥か不明だったのでX(Twitter)で尋ねたら、寿帯鳥ではないかと教えていただきました。寿帯鳥は練鵲とも呼ばれる尾長鳥をいうそうです。
彫刻と尾長鳥はずいぶん違うのですが、画で描かれる場合は頭の毛先が尖っていたり、梅の木にとまったりと似た特徴を持っています。
寿帯鳥のつがいは一生を添い遂げるので夫婦円満のシンボルなのだとか。縁起のいい彫刻だったんですね。いやはや奥深くて面白い。彫刻はどこかで勉強したいものです。
この神社は謎解き要素が豊富なのですが、単に歴史書を眺めていても解けませんので、気になることはぜひ氏子や地域の方々に尋ねてみましょう♪
境内社
本殿周辺にはいくつもの境内社が見受けられます。どの祠がなんという神社かは示されていませんが、『茨城県神社誌』には次のような境内社があげられています。
また、当社には複数の境内社があり、次のような神々をお祀りしています。
- 素鵞神社…素戔嗚命
- 天満宮…菅原道真
- 稲荷神社…倉稲魂命
- 熊野神社…伊弉冉命、事解男命、健津見命
- 駒形神社…保食命
- 雷神社…八色雷神
じっくり観察するとわかるかもしれませんね。ぜひ挑戦してみてください!
弁天社
ここでちょっとした怪談をご紹介。那賀鹿島神社の社殿の後方、少し下ったところに何やら小さな祠があります。
祠の周囲に溝があって池の上に浮かぶ石のように見えないでしょうか。聞くところによるとこちらは弁天社で「幽霊」を鎮めているのだとか。つまり溝は弁天池を模しているのでしょう。
なんでも昔この辺りにある緩やかな坂に夜な夜な幽霊が現れたそう。幽霊は坂から移動しては消えていくので、いつも消えるところに石と祠を置いていわば封印をしたそうです。
なんとも奇妙な話ですが、民俗学的には非常に興味深い。幽霊は本来人に見えない「陰」の存在です。しかし、条件を満たすことで「陽」に変わって見たり声を聞いたりできます。
こうした「変化」は古くから鬼門の影響といわれており、鬼門除けとは鬼だけでなくこのような幽霊も含めた災厄除けの措置をいいます。
鬼門は丑寅(北東)の方角というのが有名ですが、じつは時間や季節にも丑寅があるんです。いわゆる丑三つ時とか大晦日から元旦の間がそうですね。幽霊が丑三つ時に現れるというのは鬼門が開く時間帯であるため。そして迎春行事の多くは鬼門除けも兼ねているのです。
今回の幽霊は巨石によって封印されたと思われます。鬼門(丑寅)から現れた幽霊は一時的に木気が強くなっています。木気を負かす(剋す)のは金気ですから、その象徴である石、それも巨石を置いて気を封じたのでしょう。(実際に置いたかは不明)
弁天社を建てた理由はさらに奥深い考えがあるかもしれません。弁天さまは蛇神、そして金気の権化ともいえるような巨石、丑寅の幽霊。これらの組み合わせは巳、酉、丑の金気の三合。
つまり金運を猛烈にアップさせる組み合わせですね。昔の人は忌むべき幽霊さえ五行説を駆使してありがたい存在に変化させたのかもしれませんよ。
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当弁天社は昭和40年代の時点で正式な境内社に数えられていません。
御朱印
那賀鹿島神社の御朱印です。見開きの書き置きオンリー。市特産の西ノ内和紙が使われています。社殿右手の集会所が仮設の授与所になっています。不在の場合は瑞垣の張り紙にある連絡先にお電話してください。
2022年3月1日から限定500枚で頒布を開始しました。無くなったら補充されるかと思いますが、定かではありません。
令和6年現在、御朱印は引き続き頒布中です。境内が無人である場合は神門の壁に張り出された連絡先にお電話してください。
・ご祭神は武甕槌命。古くから当地の武士に崇敬された
・弁天社は幽霊を封じているといわれる
・御朱印は社殿の張り紙にある連絡先に電話してからいただける
茨城県神社誌|茨城県神社庁
茨城の地名|編:平凡社
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