wata
明治以前、神社とお寺は密接な関係で神仏習合の時代といわれます。
それだとまるで神道と仏教の信仰ばかりが盛んだったと捉えられがちですが、本当はそのどちらにも属しきらない修験道も生活のあちこちにあったのではと思います。
だって、神社の祭祀を修験者がしていたケースがあるくらいですから。いや、じつはそれって結構多かったのかもしれませんが。。
この記事では個人的に修験道の色が濃いと感じる水戸市赤塚の飯綱神社についてシェアします。修験を知るともっと寺社に対する理解が深まると思いますので、ぜひご参考に♪
由緒
大宝八幡宮(下妻)の分霊を奉鎮したことにはじまる
境内に伏見稲荷の分霊を祀る
柏四郎兵衛藤原勝成により鰐口が奉納される。鰐口には「茨城郡赤塚村鎮守八幡宮」
水戸藩命により破却
八幡宮跡地に末社の飯縄権現を主祭神として、村内弥介塚の三王日吉権現を配祀として奉斎
※『茨城県神社誌』によると元禄5年のこと
氏子2名より神饌田として反九畝歩寄進あり
三王権現と称し、祭神は大巳貴命、飯綱権現とする
伊勢の神宮司庁から式年遷宮造営用材を下附される。水戸・森山朝光に同材を用いた剣と鉾の謹刻を依頼。同年に完成し本殿に奉納
ご祭神は伊豆奈神です。由緒に何度か出る飯綱権現と同体と捉えてよいでしょう。飯綱権現の正体は信州(長野県)の飯縄山で修行を積んだ飯縄三郎天狗です。
三郎は貧しい人々に食べられる砂である「飯砂」を配ったという伝説があり、飯縄山は「飯砂の山」から転化したといわれます。飯縄山は修験道の霊山なので修行を積んだ行者が神秘的な力を得て人々を救ったということなのでしょう。
飯綱権現は『古事記』や『日本書紀』に登場しない修験道の神です。権現というだけあって本地仏があり、一般的には金翅鳥王(迦楼羅天)や荼枳尼天の名が挙げられます。
なんだか難しいことを書いている気がしますが、重要なポイントは当社が修験道と密接な関係があるということです。歴代の祭主は神職や僧侶より修験が多かったようです。
由緒から省きましたが、『茨城県神社誌』には別当の交代についても触れられており、名前から察するにその多くは修験だったと思われます。
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飯綱権現についてこちらを参考にしました
アクセス
常磐線赤塚駅から約1.4km。車なら5分以内。徒步でも15分も歩けば着くはずです。
最寄りICは常磐道の水戸ICです。下りてから県道50号を東へ進み、赤塚駅入口の信号の先を右折して市街地に入り道なりです。
神社の前に小さな駐車場があります。ふだんは空いてますが、月次祭のある1日と15日は御朱印をいただきたい方で埋まるかもしれません。
名称 | 飯綱神社 |
住所 | 茨城県水戸市東赤塚2173 |
駐車場 | あり |
Webサイト | 公式サイト |
鳥居
駐車場はこちらの鳥居の目の前にあります。ご覧の通りコンパクトな境内ですね。
よく見ると鳥居が2つ連続して並んでいます。おそらく区画整理の末、境内が狭まり一の鳥居が近づいたのでしょう。
もしくは、もとは少し離れた場所にあったものをこの地に移動させたか。詳しいことはわかりませんが、明治の頃に神職の方々が苦労していまの土地を手に入れたようです。
決して大きな神社ではなく、次々と別当が交代しているのに色々と歴史が残っているのが面白いですね。正直、チグハグに感じるところもあるのですが。。
これは触れていいのかわかりませんが、『茨城県神社誌』の社歴の後半に「祭神宇迦之御魂命、大巳貴命が正しい」と書かれています。
しかし、同書の「祭神」にあるのは「伊豆奈神」のみ。明治維新のとき由緒の報告を誤ったといわれますが、根拠を示せれば糺せるはず。気になる記述です。
社殿
神明造りの社殿。鉄筋コンクリート造に重厚な屋根。個性的で印象に残る神社です。
ふだん中央の扉は閉じられています。中で参拝できるのはお正月や祭りのときだけでしょう。
一般的には拝殿の前でお参りするので建物の中に入れるのは珍しいですよね。祭壇を目の前にするとちょっと緊張感があったり。
社殿にかけれた扁額は司法大臣を務めた大木遠吉の書。名前の前にあるのは「伯爵」です。
どういう経緯で筆を執ったか不明ですが、奉納したのは河和田村(現:水戸市河和田)出身で文筆家および政治活動家の立林宮太郎なのでそちらと関係があったのではないでしょうか。
素鵞神社と稲荷神社
本殿の向かって右手に位置するのは末社の素鵞神社(左)と稲荷神社(右)。前者のご祭神は素戔嗚命、後者は宇迦之御魂命です。
由緒から察すると素戔嗚命は一ノ矢八坂神社(つくば市)、宇迦之御魂命は伏見稲荷から分霊させたということでしょう。夏の祇園祭は素鵞神社のお祭りです。境内の参集殿で神輿が見れるようになっていますよ。
こちらもふだんは扉が閉じられています。ブロック塀に囲われているのは本殿を守るためでしょうか。先の大戦で水戸駅周辺は空襲にあっており、当地も駅(赤塚駅)に近いことからなにかと警戒したのかもしれませんね。
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御朱印
飯綱神社の御朱印です。社殿の中に神職がいらっしゃるのでお声掛けして書いていただきました。
お正月以外に毎月1日と15日にもいただけます。午前9時〜10時前に伺いましょう。祈祷後なら大丈夫です!
また、兼務社の鷲神社(千波町)、吉田神社(河和田)もいただけます。
神仏習合していたから破却は本当か
当社の由緒で気になるのが、公式サイトにある次の部分です。
しかるにこの年水戸光圀公の八幡改めのご命令により藩内の神社の改革で仏教的色彩が強かったのか破却されてしまったのです。
その後元禄9年(1696年)その跡へ新しく社殿を造り境内地にあった飯綱権現を新に御祭神としてお祀りすることになりました。
「この年」とは当社の前身とされる八幡神社に鰐口が奉納された延宝6年(1678年)です。
義公のいわゆる「八幡改め」は「神仏習合を嫌ったため」という説が有名ですが、果たして本当でしょうか。飯綱権現は本地仏を持つ修験道の神ですから間違いなく神仏習合しています。そのため明治になって「飯綱神社」に改称しました。ご祭神を伊豆奈神としたのも同時代でしょう。
つまり本当に義公や水戸藩が神仏習合を嫌ったのなら、破却後、同じように神仏習合している飯縄権現を祀るのはおかしいのです。
それでは、八幡神は水戸徳川家以前に当地を支配していた佐竹氏の氏神だったから神社を潰したという説はどうでしょうか。八幡神は源氏の守護神といわれ、佐竹氏が源氏である一方で徳川家康も源氏を自称しています。ということは家康の血を引く水戸徳川家も当然源氏なので氏神を理由に破却するのは色々と危険。
では、結局義公はなにを考えて八幡改めをしたのか。わたしは藩内の神社整理の意味合いが強く、一族の神社(氏神)よりも地域の神社(鎮守)に統合した結果ではないかと思います。藩内の大きな八幡神社が残っているのはそのせいではないでしょうか。
・伊豆奈神は飯綱権現と同じと考えられる修験道の神。神仏習合の名残
・江戸時代、祭祀は修験と思われる別当によって執り行われた
・御朱印はお正月と月次祭(1日・15日)に社殿内でいただける
茨城県神社誌|茨城県神社庁
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。