wata
柳田国男(旧字:國男)が、民俗学に興味を持ったきっかけをご存知でしょうか。
柳田国男は民俗学の父と呼ばれ、日本の文化の発展に多大な貢献をしました。文化勲章を受賞していますので、功績は文句なしと言えるでしょう。民俗学というと難しそうですよね。でも、妖怪や超常現象、怪談なども研究の対象。好きな人にはたまらない学問です。
柳田は87年の生涯でさまざまな土地を訪れました。そして、各地で歴史として残らない伝承や伝説、昔話などを見聞きし、書き残しています。代表作には遠野物語などがあります。記録に残らないものを調べるのが民俗学なので、現地にいく必要があったんですね。
もちろん茨城県に訪れています。いや、むしろ茨城は特別。少年期に約2年間過ごしたのですが、そのときに人生を変える体験をしています。
今回は柳田国男と利根町の関係。さらに、うわさの神秘体験についてご紹介します!
柳田国男の少年期
柳田国男は明治8年(1875年)に兵庫県で生まれました。柳田という姓は婿養子となってから。それまでは松岡でした。
松岡家では色々あったようです。お父さんの度重なる転職。兄の鼎の問題の多い結婚生活などなど。ただ、そのことが後に民俗について考えるきっかけになったとも。
民俗とは歴史や習慣のこと。知っておけば生きる道標になると思ったのでしょう。なんの道標もないと不安を抱えたり誤った選択をしてしまいますからね。
茨城との関係
茨城県との関係は明治20年(1887年)。国男が13歳のときにはじまります。先に茨城で生活していた兄・鼎に招かれて住むことになったんです。
鼎は医師の跡取りがいなかった小川家にやってきて医院を開業していました。鼎は小川家の離れを借りると弟と両親を招いたんです。
小川家は代々学者。蔵にはたくさんの本がありました。国男はここで徹底的に読書をします。赤松宗旦の利根川図志との出会いもこのとき。利根川図志は利根川周辺の出来事や由来を画を交えてまとめたもの。まさに柳田の民俗学の原点といえるでしょう。
柳田国男記念公苑
利根町はかつての小川家を柳田国男記念公苑として残しています。
とはいえ、実物が残っているのではなく建て替えられたもの。本物は和洋女子大学に移築されて授業に使われていました。その後、老朽化によって取り壊されています。この建物の歴史は深くありません。雰囲気を楽しむ程度です。
建物は意外と実用的で驚きました。炊事場やお手洗いがありますので合宿にも使われるそうです。訪れたときは「このあと会議があるのでそれまでなら」とのことでした。調べたら格安料金。。半日借りても600〜800円!駐車場があるので使い勝手よさそうです。
入り口には柳田と家族の記念写真があります。柳田に関係がありそうなのはこれくらいでしょうか。
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小川家の祠
建物(小川邸)の裏に小川家の氏神をまつった祠があります。国男少年はこの祠の前で不思議な体験をします。
祠の隣の立て札から全文引用します。
小川の祠は明治十四年から十五年頃、当主の東作が祖母の屋敷の神様にお祀りし、その長命にあやかろうと日頃から愛玩していた玉を御神体としたものである。
由来のことは知らずに、いたずら盛りの國男少年は家人の留守を見計らい石の扉を開けて見た。ところが予想もしなかった綺麗な玉が入っていたのに驚いて、興奮のあまり気が遠くなってしまった。よく晴れた青い空を見上げたところ数十の星が見えたという。その時突然にピーッとひよどりが鳴いて通った。その拍子に身がひきしまって人心地がついたという。後年、あの時ひよどりが鳴かなかったら気が変になっていたかも知れないと、異常心理について振り返り、そうした境遇に永くいてはいけないという暗示だったのかも知れないと述べている。
当時間もなく両親が郷里から布川に出て来て家の中が複雑になったのを機に上京して、学問の道へと進んだのである。國男少年は繊細な感受性の持主だったわけで、民俗学の樹立につながった資質の片鱗を垣間見るエピソードであった。
利根町教育委員会が発行した少年柳田國男でも同様に書かれています。
面白いことに話に出てくる玉は実在します。利根町歴史民俗資料館にありますので興味のある方はぜひ。ただし写真撮影はNGです。
レプリカなら公苑の敷地内の土蔵にあります。確認したら写真撮影OKでした。本物はこれをずっと古くした感じです。もっと黒くて鈍い色をしていました。
出来事をまとめます。
- 祠の扉を明けたらキレイな玉が入っていた
- それを見た次の瞬間に不思議な体験をした
- ひよどりの鳴き声で気を取り戻した
この流れだと玉と不思議な体験は関係ありそうですが、実はそうとも言えないんです。
柳田国男の神秘体験
小川の祠で体験したことは本人が書き残しています。角川ソフィア文庫の新訂 妖怪談義から抜粋します。
当時なかなかいたずらであった自分は、その前に叱る人のおらぬ時を測って、そっとその祠の石の戸を開けてみたことがある。中には幣も鏡も無くて、単に中央を彫り窪めて、径五寸ばかりの石の球が嵌め込んであった。不思議でたまらなかったが、悪いことをしたと思うから誰にも理由を尋ねてみることが出来ない。
幻覚の実験/新訂妖怪談義p73
このあと玉は小川家の祖母の宝物だと知る話になります。石が宝物というのは少し変わっていますが。。。
重要なのは祠の戸を開けた後、なにも起きていません!。。。いや、体験はあるんです。ただ、はじめて玉を見てから2〜3週間経過してから。いたずら好きの国男少年が(ひまつぶしに)祠の前で穴を掘っていたときのことです。
ところが物の二、三寸も掘ったかと思うところから、不意にきらきらと光るものが出てきた。よく見るとそれは皆寛永通宝の、裏に文の字を刻したやや大ぶりの孔あき銭だった。
幻覚の実験/新訂妖怪談義p74
不思議ですが、特別なことではありません。柳田は土木や建築の儀式に使われたものではないか、と考察しています。
問題は次の展開です。
幻覚はちょうどこの事件の直後に起こった。どうしてそうしたかは今でも判らないが、私はこの時しゃがんだままで、首をねじ向けて青空の真ん中より少し東へ下ったあたりを見た。今でも鮮やかに覚えているが、実に澄みきった青い空であって、日輪のありどころよりは十五度も離れたところに、点々に数十の昼の星を見たのである。
幻覚の実験/新訂妖怪談義p75
ここで昼間の空にたくさんの星を見ています。なぜ、こんなに細かく経緯を書くかというと、立て札と本人の語っていることでは重要な部分が違うからです。ふたたび引用します。
そうして自分だけで心の中に、星は何かの機会さえあれば、白昼でも見えるものと考えていた。
幻覚の実験/新訂妖怪談義p75
不思議な玉が出来事の原因、とするか、条件を揃えると不思議な出来事が起こる、かです。
立て札は前者と捉えていると思います。後者は自分の意志で事を起こせます。国男少年はそちらに興味があったのではないでしょうか。玉は一応由来がわかっていますし、見ただけではなにも起きません。玉に興味があれば詳しく家族に聞いたことでしょう。
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土蔵
柳田國男と利根町に関することは土蔵の中にまとめられています。利根町に限らず関係自治体の資料も置かれていますので、調べ物には最適ですよ!
この土蔵は”本物”ですから、ある意味この公苑でもっとも重要な場所といえるかもしれません。。
アクセス
名称 | 柳田国男記念公苑 |
住所 | 茨城県北相馬郡利根町布川1787-1 |
駐車場 | あり |
Webサイト | 利根町公式内 |
まとめ
利根町は柳田国男の第二の故郷と言われます。民俗学をはじめるきっかけとなったので、それは確か。『妖怪談義』で当時の経験を語った時、年齢は61歳でした。よほど心に刻まれた出来事だったのでしょう。
今回はご紹介しませんでしたが、小川邸から少し離れたところに徳満寺があります。国男少年は、そこで間引き絵馬を見て恐ろしいと思う反面、知らない風習に興味を持ちました。
赤松宗旦の利根川図志も大きな影響を与えたでしょう。柳田の方がずっと広い範囲ですが、やっていることはほとんど同じです。
過ごした時間は2年と少し。決して長くはありませんが、人生に大きな影響を与えました。利根町に訪れたら実際に祠を見るのもいいですし、公苑内の土蔵で少年期に関する資料を読んでみても楽しめます。一般の方向けに簡略化されていますから、気軽に触れることができますよ♬
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