諏訪町の下諏訪神社|日立市

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wata

ども!いばらき観光マイスターのwata(@wata_ibamemo)です!

この記事でわかること
  • 由緒とご祭神
  • 万年大夫について
  • 御朱印のいただき方

神社には別の神社と深い関係を持っていたり、あるいは二社でひとつの神社とみなされる場合があります。県内で有名なところといえば大洗磯前神社(大洗町)と酒列磯前神社(ひたちなか市)でしょうか。

特に後者は珍しいことなのでそうそうお目にかかれません。しかし、さいきんお参りした日立市諏訪町の諏訪神社はまさにそれ。本営と同様に上下かみしもに分かれていましたせっかくなのでご紹介させていただきます。

諏訪神社とは

下諏訪神社

下諏訪神社

由緒

建長2年/1250年
創建
信州の神人・万年大夫藤原高利、一夜の霊夢により下諏訪明神の分霊をそれぞれ勧請して創建。諏訪第二宮と称するようになった。万年大夫はその後に自らの像を刻み社に納め、諏訪に通じるという水穴に入り帰らぬ人となった
元禄2年/1689年
奉納
水戸藩主徳川光圀、当社を参拝して朽ちた夫婦像の新造を命じる
嘉永6年/1853年
奉納
藤田東湖、直筆の大幟二流を奉納
明治6年/1873年
村社列格
明治41年/1908年
供進指定
昭和27年/1952年
宗教法人設立
昭和45年/1970年
文化財指定
諏訪ささらが県の無形民俗文化財に指定される
昭和46年/1971年
文化財指定
藤田東湖直筆の幟が市の文化財に指定される
昭和49年/1974年
文化財指定
木造万年大夫夫婦坐像が県の文化財に指定される
昭和54年/1979年
八坂神社神輿収納庫竣工
昭和49年/1974年
文化財指定
木造万年大夫夫婦坐像が県の文化財に指定される
昭和56年/1981年
粟の巣ささら舞奉納祭庭造成
※境内石碑より
平成17年/2005年
本殿修繕および上屋新築
平成30年/2018年
拝殿修復および二の鳥居(両部鳥居)建立
令和2年/2020年
記念植樹
創建770年を記念して大社の御神木から孫生え苗木を譲り受けて植樹

ご祭神は建御名方たけみなかたです。正確には下社のご祭神となっておりまして、本来は少し離れた場所にある上社の蹈鞴五十鈴姫たたらいすずみひめとあわせてのご祭神ということのようです。

建御名方命といえば本営のように妃神の八坂刀売やさかとめ命と祀られることが多いので、当社はかなり特殊なように感じます。なお、上社の創建は不詳。明治以降は一神社二社とされましたが、祭祀などは下社が主導です。

当社を創建した万年大夫(藤原高利)はなんとも神秘的な存在です。特に夫婦揃って諏訪の水穴に入って消息不明というのは意味が分かりかねます。実際に諏訪に通じているなら信州で生きているはずですが、はてさて。

創建の年代は非常に古いものの社伝は近世のもの以外にほとんど残っていないようです。ただ、徳川光圀公(義公)ゆかりの夫婦像や藤田東湖直筆という大幟の存在から考えると村社規模とはいえ有力な神社だったのでしょう。

『日立市史』には「古来漁業家の崇敬厚く、かつては河原子、久慈浜方面からの参詣者も少なくなかった」とあります。立地からすると当社よりも海に近い神社はいくつもありますので興味深いですね。

私見ではありますが、諏訪神は山の神としての神格があるため、古い時代の五行説の思想に基づき海上安全の神徳があると考えられていたのでしょう。これは「土剋水」と呼ばれる法則で、土気は水気を鎮めるとされています。

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由緒としてはあまり語られていないようですが、徳川斉昭公の最初の就藩で参拝しました。斉昭公が諏訪に訪れたのは「諏訪梅林」の歴史の方でも紹介されています。
MEMO

下諏訪神社の社伝は神峰神社の古文書など複数の文献を参考にして書かれていると思われます。各文献については『日立市の歴史点描』が参考になります。

アクセス

最寄りICは常磐道の日立中央ICです。下りてから約15分ほど。とはいえ、日立市内は渋滞することが多いのでもうちょっとかかるかもしれません。

駐車場は鳥居そばにあります。ふだんであれば問題なく駐車できますが、御朱印を頒布する初詣などの催事であればかなり厳しいのではと思います。

名称 諏訪神社
住所 茨城県日立市諏訪町1-16-9
駐車場 あり

鳥居

鳥居

鳥居

いつもと違った境内を、と思いましてお正月に参拝。この日は3日の午前中早い時間ということで参拝者は落ち着いていました。とはいえ、駐車場に停められるかはヒヤヒヤでしたけどね。

境内は見ての通りの山。諏訪神にお参りするためにはだれもがこの石段を登らなくてはなりません。参拝もさることながら社殿の建立もきっと困難だったはず。それを建てたのは山こそが諏訪神にふさわしいからでしょう。

手水舎

手水舎

なかなか年季の入った手水舎。水は張られていなかったかと思います。まだ不安の残る時期だったので境内のお清めはアルコールとしました。

二の鳥居

二の鳥居

石段を少し登ったところには「諏訪第二宮」の扁額が掲げられた両部鳥居。平成30年の建立というのでつい最近のことですね。

両部とは仏教、特に真言宗で使われる用語で胎蔵界と金剛界の両世界、あるいは両部神道を意味するといわれます。言葉の意味はともかくとして、明治以前の神仏習合時代、当社がどのような姿であったかは不明です。

軽く調べたところ当社周辺に寺のあった形跡がないので、古くから純粋な神道なのかもと思いましたが。。神峰神社の古文書や社伝で重視される諏訪の水穴(別名:神仙洞)が「普賢ヶ嶽」の麓にあることから察するに習合していた時代はあったのでしょう。普賢菩薩は諏訪神の本地仏とされています。

ただ、普賢菩薩は本社の「上社」の本地仏とされたことから、当社(下社)の本地仏とするのは少々違和感があります。諏訪町の諏訪神社の上下は本社とは違った理由で区別されているのではと思います。

「二宮」は社伝だと創建時から称されましたが、「二」である理由は不明です。一方、神峰神社の古文書では信州(長野県)の本社を一宮とした場合の尊称であり、義公によって命じられたとか。地元では上諏訪神社を一宮とするといった声もありますのでこれもまた諸説あるようです。

社殿

拝殿

拝殿

石段の先、正面にあるのが拝殿です。扉が開放されているのは正月ならでは。ふだん社殿と社務所は閉じられており参拝者は決して多くはありません。

神紋

神紋

社殿に掛けられた幕にある神紋は「梶の葉」。梶はご祭神の建御名方命と関係が深いとされています。梶の字に含まれる尾は蛇を示唆するキーワード。諏訪神が蛇体(あるいは龍体)とする説にも通じるのではと思います。

本殿(覆屋)

本殿(覆屋)

覆屋で保護された本殿は神明造です。その姿はほとんど見えない。。と思いきや、瑞垣の隙間は広いのでじつはよく見えたりします。

本殿

本殿

平成17年に本殿の基礎部分を固めたそうなので平成23年の東日本大震災の影響は(本殿には)なかったのではと思います。幸いなことです。

整列する境内社

整列する境内社

拝殿に向かって左手には数々の境内社。素朴に野ざらしになっている社殿は味わい深いと思うものの、やはり人の手が加わって尊重されていることが伝わるこのような姿のほうがよいのではと思います。

万年大夫夫婦像

収蔵庫

収蔵庫

社殿は山の中腹にありますので、もう少しだけ登ることが可能です。整備された石段を少しだけ進むと右手に収蔵庫が見えます。こちらにあるのは当社を創建したという万年大夫の夫婦像です。

万年大夫夫婦像

万年大夫夫婦像

夫婦像は由緒にあるように当社を創建した藤原高利が諏訪の水穴に入る前に残したものとされ、義公がそれを体内に納めるための木造を作らせました。これらの像はすべて県指定の文化財となっています。

その管理は内と外の像で別となっているそうで、外は日立市郷土博物館、内は諏訪神社にあります。つまり、この収蔵庫にあるのは体内像です。と言いたいところですが、博物館には四躯揃って展示されているようですね。

見たところ義公が嘆くような朽ち方はしていませんし、いわゆる御前立のような像でしょうか。平安期の衣装を着ているなどその雰囲気は充分漂っていますけども。

万年大夫について最古の記録は寛文年間に水戸藩が編纂した『開基帳』です。簡潔な内容ながら当時から上下の諏訪神社(諏訪大明神)や神体があったこと、それに神主の名前などがあって貴重な史料となっています。

それから万年大夫に関するさまざまな情報が出てきます。夫婦が水穴に消えた、水穴が諏訪に通じている、大夫の名前は藤原高利などなど。現代に伝わるお話はさまざまな人物の記録が混ざり合っているので注意が必要ですね。

また、女性の方は「万年守子」と伝わっています。守子は巫女を意味する方言なのだとか。古くは常陸五山に梓弓をあやつる巫女がいたといいますし、このあたりも気になるところですね。

万年大夫に関する詳細については『日立市の歴史点描』の「諏訪神社万年大夫の伝説」にまとめられていますのでご参考に。

ちなみに万年大夫夫婦が入ったという諏訪の水穴は実在します。詳しくはその記事を書いた際にご紹介しますが、市の公式サイトにも詳しくありますのでご参考に。

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「高利」の名や水穴と諏訪神社の位置関係から考えると、万年大夫夫婦像は諏訪神の神像に思えます。開基帳の時代は水戸藩で神仏分離が進められておりましたので、仏教の偶像崇拝を取り入れた諏訪神社の信仰は存続が難しく。。なんて事情があるかもしれませんね。

諏訪ささら

梶の木

梶の木

さらに登っていくと道中には創建770年を記念して植樹したという梶の木がありました。諏訪神と梶の関係は個人的に重視しておりますので喜ばしい限り。諏訪神社の境内にはこれがなくてはいけません。

ささら奉納の祭庭

ささら奉納の祭庭

そしてさらに進めばささらを奉納するための祭庭が見えます。当社のささらは一般的に「諏訪のささら」として知られていますが、境内の石碑では「粟の巣ささら」となっています。これはいかに。

粟はもちろん食用の植物。ただし、同音の阿波は県内の三輪山信仰があったと思われる地域に見える文字。諏訪神と三輪山の神(大物主)はともに蛇体とする説があるので気になるところです。

さて、当社の諏訪ささらは例祭などの出社の際に奉仕される芸能です。昭和45年には県の無形文化財指定を受けました。

ささらは県北地域でよく見られ、(すべてではないかもしれませんが)13歳くらいまでの男の子が舞手という不思議な慣習があります。当社の場合は小学2〜3年制とのことで9歳くらいまでのようです。

五穀豊穣や雨乞いといった意図があるといわれる伝統行事で、その音楽や動きにはそれぞれ意味があるかと思います。県北のくくりで比較してみても面白いと思いますよ。

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そういえば、諏訪神は男児を依代とするといわれています。ささらが男児によって奉納されるのは興味深いですね。

御朱印

下諏訪神社の御朱印

下諏訪神社の御朱印

諏訪神社の御朱印です。いただけるのは正月3が日の限定。その日であれば社務所に氏子の方々がいて書き置きを頒布しているかと思います。

御朱印をきっかけに参拝する方のために近年はじめたのだとか。宮司は当社を兼務としており、本務の方では頒布していないことから氏子の声が大きかったのでしょう。

2023年の境内の案内によると、社務所は次の時間帯に開けているとのことです。御札やお守りを授かりたい方も参考にしてください。

1月1日 午前0〜午前2時、午前7時〜午後5時
1月2日 午前8〜午後5時
1月3日 午前8〜午後3時

上諏訪神社

上諏訪神社の鳥居

上諏訪神社の鳥居

下諏訪神社より少し西北に鎮座する上諏訪神社。通り沿いに鳥居がありますのが、駐車場所がないので少し戸惑うかもしれません。

広い駐車場

広い駐車場

境内東側の道路が広い駐車場へと続いておりますのでご安心を。

上諏訪神社の二の鳥居

上諏訪神社の二の鳥居

上諏訪神社の本殿

上諏訪神社の本殿

下社と比べると社殿は小さく、また境内も神社らしい装飾はさほど見られません。「上下」の関係性からすれば、上社は優位な立場であるはず。二社のご祭神の関連性もいまひとつなのでなんともミステリアス。

上諏訪神社の屋根

上諏訪神社の屋根

暗くてわかりにくいものの、かろうじて屋根が赤く染められているのがわかります。社殿の赤といえば稲荷神社や天満神社で見られる光景で、いずれも農業や治水を祈願することが多々あります。

これらは前述した「土気」とみなされている証のひとつ。ご祭神の「五十鈴姫」の五と十はそれぞれ土気の生数と成数ですから、やはり諏訪神は上下とも山の神と捉えられていると思います。

ただ。。たとえそうだとしても、なぜご祭神を本社と同じようにしなかったのでしょうか。また有力な下諏訪を上社にしなかったのでしょうか。

ここで気になるのが『開基帳』の記述。なんでも上社のご祭神は古くは天速玉姫命なのだとか。これは諏訪神社と同じ日立市内に鎮座する泉神社のご祭神の名前です。

同社は『延喜式』の神名帳に記載される古社(式内論社)とされますので、神号から考えれば諏訪神社より古い可能性が高いといえます。それならば上社にあたるのかもしれませんね。

ただし、それでは諏訪神社の上社の意味にはならないように思います。今のところは史料をもとに関係を説明するのは難しそう。ひとまずは理屈よりも現実にそのように信仰されてきたことを大切にしたいですね。

アクセス

まとめ

この記事のまとめ

  • ご祭神は建御名方命。鎌倉期に創建したといわれる
  • 万年大夫は藤原高利という諏訪の神人。諏訪の大穴で姿を消した
  • 御朱印は正月3日まで。境内の授与所でいただける

参考文献

茨城県神社誌/茨城県神社庁
茨城県の地名/編:平凡社

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