wata
名前は言うまでもなく重要。名は体を現すとさえ言われています。名前の由来まで把握できれば、その本質まで迫っているといえるのではないでしょうか。地名もまた同じでそこには文献にないような情報も潜んでいるんじゃないかと思うんですよね。
そんなことを考えたのは常陸大宮市の由来となったといわれる大宮村の村社・甲神社に参拝してのこと。同社は立派な社宝を数多く所有する佐竹氏(部垂氏)と関係が深い神社です。不詳となっている部分が多いのもまた魅力。
妄想多めながらちょっと気になるような指摘をしてみました。わたしのあやしげな説を疑う形で結構ですのでぜひ参拝してみてくださいね。おすすめは毎年秋の集中曝涼。多くの社宝が公開されますよ!
由緒
太政大臣藤原良継、勅を奉じて創建したという
※『佐竹義昭奉加帳』による
水戸藩主徳川光圀の命により、部垂村周辺十二ヶ村(部垂、宇留野、樫、小倉、塩原、辰ノ口、岩崎、上根本・横瀬、八田、菅又、引田)の鎮守であったが、部垂村一村の鎮守社となる
*4月
能面が県の文化財に指定される
佐竹義昭奉加帳が県の文化財に指定される
台風により神門の屋根、門柱、控柱、神塀が破損
鳥居、記念碑、社殿の標石、灯籠が倒壊および破損。本殿の石垣が崩れて本殿が傾く。本殿は同年中に復旧
木造狛犬が市の文化財に指定される
ご祭神は武甕槌命です。それに甕速日命と樋速日命を配祀しています。
配祀についてご存知の方は少数でしょう。じつは同市内の北塩子の鹿島神社も同じ祭神です。この辺り独特の信仰かもしれません。武甕槌を主祭神とする鹿嶋神社には見られませんから、神仏習合時代の別当の影響が考えられます。
たとえば、武甕槌の本地仏が十一面観音なのでその脇侍の垂迹神として祀ったとか。県外はわかりませんが、十一面観音は天台宗との関係が深く、同宗に関する神社は大同年間を創建とする伝承が多々あります。
当社もまた大同年間に創建したといわれる神社ですが、藤原良継は8世紀に死去しておりますので9世紀に創建とは考えもの。この辺りは2つの伝承が混ざっているような気がします。
とはいえ、江戸時代に水戸藩がまとめた『開基帳』には当社周辺に天台宗の寺院が見えませんので、別当についてはそれ以前の時代にあったかもしれないという程度に過ぎませんが。
社号の「かぶと」は珍しい読み方ですよね。由来について境内の掲示板で次のような説が紹介されていました。
平安時代後期に佐竹郷(現 常陸太田市天神林周辺)に来往した佐竹氏の初代昌義が、源氏の祖 源経基の兜を奉納したことが社名の由来になったという説もあり、以来、太田に本拠を構えた佐竹氏の祈願所として崇敬を受けました。
佐竹氏やその時代の社宝がいくつも残っていますので中世に隆盛を極めていたのでしょう。もしかしたら佐竹昌義の活躍した12世紀の頃に創建されたのかもしれませんね。
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アクセス
最寄りICは常磐道の那珂IC。下りてから約20分です。国道118号を北進。大宮バイパスの信号を右に入って行き、上町東の交差点を右折すると左側に見えてきます。
駐車場は鳥居の前のスペースです。でも、鳥居の先まで来るまで入っていく方もいるようですね。一般的な参拝者は鳥居をくぐりますから鳥居前でいいと思いますけど。
名称 | 甲神社 |
住所 | 茨城県常陸大宮市下町221番地 |
駐車場 | あり |
Webサイト | なし |
鳥居
鳥居の前に駐車していざ参拝。当社は少し変わった境内となっておりまして、鳥居が2つ並んでいます。
右が甲神社、左が摂社の素鵞神社の鳥居です。摂社とはいえ一般的な境内社よりも破格の扱いをされているのは、もとは姥賀・高渡・東富の鎮守であったためかと思います。独立した立派な神社だったんですね。
このまま参拝を始めてもよいのですが、その前にぜひご覧いただきたいのが鳥居前の案内板。令和3年に建てられたもので当社の特徴がわかりやすく紹介されています。
特に面白いのが、鎮座地の旧村名「部垂」について。案内板から二箇所を抜粋します。
甲神社の所存する地域の旧村名「部垂」は、久寿年間(一一五四〜五六)の鹿島神社目録に「辺垂」とあることが確認できる古い地名で、当社もかつては「部垂大宮大明神甲宮」「甲明神」「部垂大明神」、また「鹿島明神」とよばれていました。
部垂村は天保14年(一八四三)に「大宮村」と改名しますが、鎮守である「甲大宮」にちなんだものです。
部垂村が大宮村に改名され、それが現在の常陸大宮市へと受け継がれていきました。常陸大宮市にとって極めて重要な神社ですね!
また、佐竹氏支流の義元は享禄9年(1529年)に当地の領主だった小貫俊通から部垂城を奪い部垂氏を称しました。兄である佐竹義篤との争いに敗れる天文9年(1540年)まで領主を務め、当社にもいくつかの寄進をしておりますので、もっとも部垂に関係の深い武将といえるでしょう。
ちなみに大宮村に改名した理由は「語呂が悪い」という理由だそう。口頭だとちょっと誤解されやすかったのかもしれません。(参考:常陸大宮市のたからもの)
ただ、『新編常陸国誌』には「閉陀禮」とあるので江戸期は「へだれ」のようです。部垂氏の家臣団が佐竹氏とともに秋田に渡って「部垂衆」呼ばれ、大館で部垂八幡神社を創建したのもそうした理由でしょう。
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神門と神輿殿
甲神社の手前にある摂社の素鵞神社はいずれ紹介するとして、まずは甲から。一般的な神社と少し異なるのは神門があること。まるでお寺の山門のようですね。
見ての通り新しさを感じるのは平成26年に再建されたため。その4年前に台風により破損してしまったそうです。翌年には東日本大震災もありましたし、平成は当社にとっても激動だったのでしょう。
手前の左右には2つの祠。向かって右が豊磐間戸命、左が奇磐間戸命です。これは再建する以前からあったのでしょうか。門番のように鎮座する二社は随神門の左大臣と右大臣、仁王門における仁王像を連想させます。
二神は随神門の右大臣と左大臣でもあるのですが、神話での記述は古事記学センターなどを参照いただくとして、ここで祀られる理由は神話の活躍そのままに門神としての神威を期待してのことではないでしょうか。
ところで、門神といいますと民俗学の分野では客神なる正体がよくわからない神が存在します。なかなか興味深いので『コトバンク』から解説を引用します。
客人神とも書く。主祭神に対する客分の神。日本では縁故または従属の神を喜んで勧請する風があり,その場合,相殿(あいどの)にするほど主祭神と親密でなく,境内社にしては失礼になる神は,客神として拝殿の一隅や門にまつった。東北,関東の荒脛巾(あらはばき),南九州の門守(かどもり)神はその例。境内社より大きく一社を構える例もあった。
百科事典マイペディア/コトバンク
ここで面白いのは客神と主祭神の関係です。神話に登場しない神が神話の神とどのように関係するのか。それに客神は由緒どころか神号すら不詳なので招く(勧請する)理由がわかりません。
わたしの考えは「客神」は招かれた神ではなく、はじめからその地にいた神。招かれるような身元の明らかな神であれば説明は容易なはずで、それこそがタケミカヅチなど神話の神々です。
それに対して土着の神はいるとは思われているものの名前や神格は定められていません。時折、人知を超えた自然現象や偶然を通じてその存在を感じさせるだけです。
土着の神と招かれた神。どちらも重要ですが、経緯を踏まえれば尊重されるのはどうしても後者。それが両者を祀り続けていくうちに本来の立場が不明になり、やがて主祭神傍の土着の神が「客神」扱いされたのでしょう。
神門の二社が土着の神かはまったくわかりませんが、ありふれた信仰とは言えませんから、前述のような信仰が神話の記述と習合して今のような形になったのではと思います。真相はいかに、ですね。
神門の先、すぐ右手にあるのは神輿の収蔵庫(神輿殿)です。貴重品なのでふだんは当然扉が閉められていますが、集中曝涼のときは開放されて参拝できます。ただし、これは令和5年(以降?)だったかと思います。
神輿は明治14年(1881年)に後台の大工・小林春重によって奉納されました。実際に祭りで使用するものなので、100年ほど経過して昭和62年(1987年)に大改修をしました。
神輿は文字通り神様の乗り物です。移動式の社殿ですね。社殿にしてはふだん直に見ることはできません。社宝のひとつとされているためでしょう。さすが集中曝涼。ありがたいことです。
門神の二柱についてはこちら
社殿
神門先の2体の狛犬はとてもチャーミング。陶器製でしょうか。なんだかつやつやしています。昭和期に建立されて比較的新しいせいか親しみを持てるお顔。
拝殿は寄棟造で簡素。氏子の方々が節目にさまざまな奉納があるようで拝殿の内外には記念の額が掛けられていました。特に天下泰平と長生きを祈念するものが多かったようです。
扁額には生々しさを感じる龍の彫刻。面白いことに摂社の素鵞神社も同様でして当社と龍にはなにか関係があるのかと考えたくなるほどです。こちらは昭和、素鵞は明治期ですから、さほど古いものではないのですが。
もうひとつの扁額には「甲大明神」。いつの時代かは不明ですが、かなり古そう。ちなみに幕末の頃は鹿島明神と呼ばれていました。呼び名は色々あったんですね。
『茨城県神社誌』によると昭和40年代時点の氏子が1450戸、崇敬者が2350人です。今に通じる数字とは思えませんが、多くの人たちに支えられた扁額であり社殿なのかなと思います。
本殿は一般的な流造。このアングルは拝殿に続く回廊の上からなので普通に参拝しても見えません。集中曝涼で来た方だけの特典ですね。
平成23年の東日本大震災により石垣が崩れて本殿が傾いてしまいましたが、その年の内に修復したので大事には至らなかったそう。歴史を受け継ぐのは紙一重なところが多々あることを感じさせます。
なお、拝殿内部はこのようになっています。柱の上の方には江戸時代中期に描かれたという三十六歌仙の画が飾られています。三十六歌仙は紀貫之とか小野小町が数えられていますよ。
集中曝涼
年に1度、社宝を虫干しすることに合わせて開かれるのが集中曝涼です。当社は毎年展示しているのですが、新型コロナの影響により令和4年は3年ぶりの公開となりました。
会場は社殿とつながっている参集殿の方で、どなたでも無料で拝観できるようになっています。ありがたいことに神社や展示物の資料もいただけます。
今年の主な展示は以下の内容でした。リンク先の解説は市歴史民俗資料館によります。
貴重なのは県指定文化財なのでしょうが、素人のわたしにとってはその価値がなんともわかりにくい。ただ、文化財指定には希少性のほかに年代の判定が重視されるのでそれに役立つ奉加帳(寄進の割付帳)の選定は納得です。
令和2年に新たに文化財となった木造狛犬は室町時代の作とか。正面向きの狛犬は古い時代に多く、木造ということから屋内にあったと考えられています。口の中が若干朱くなっているので彩色されていたのでしょう。
上半身は背骨までしっかりと彫られていますが、下半身はテキトー。。いやおおざっぱな造りとなっています。これは職人の個性が現れていたりして。
文化財でない物もいくつか展示されていました。インパクトあるこちらの鬼板は次のように説明されていました。
甲神社に伝わる阿吽二対の鬼板。鬼板は檜皮葺や杮葺の箱棟の両端を飾る板(鬼面がなくてもいう)。阿形の背面に「奉修復鬼板東西両躯 元禄十三庚辰十二月朔日 常陽水戸部垂場」の陰刻がある。
以前の拝殿の屋根に使われていたということでしょうか。狛犬のように阿吽の関係にも見えますが、一方は笑ってしまっているような。。それと窪みの部分に朱色が見えるのでこちらも彩色されていたようです。
こちらは桜田門外義士討入の図。幕末の桜田門外の変を描いた絵巻です。桜田烈士の蓮田市五郎の作品を写したものと伝わっています。
甲神社は水戸藩の命により、幕末に神主が吉野氏から渡辺氏に交代になりました。当時の甲神社神主 渡辺松岡秀は神社の西にあった大宮郷校の指導者を務め、尊攘派としても知られていました。桜田烈士とも親交があったと伝わり、本史料は松岡が持ち伝えた遺品と考えられます。
凄惨な描写です。同事件は教科書で学びますし、茨城では映画も作られているのでご存じの方は多いでしょうが、わたしはどうにも擁護する気にはなれません。ただ、それだけ水戸藩士の意志は強かったことは事実でしょう。
神主が烈士と親交を持っていたとのこと。具体的な人物は知らないものの大凡の検討はつきます。県内の神社巡りをされている方ならその方々のお墓参りをしたことがあるかもしれませんね。
絵巻に描かれた人物の「要人」や「監物」は百官名という特殊な通称です。江戸時代の名前は現代の常識とは大きく異なり、正式な官名(役職名)や百官名と呼ばれる実在しない官名を実用としていました(公家を除く)。
ただし、百官名といえども誰もが勝手に名乗ってよいものではなく、ある程度社会的な地位のある者に限られていました。こうした名前からも事件の性質が汲み取れるわけですね。
刀剣類については市のYouTubeチャンネルでそのお手入れのようすが公開されています。貴重な機会なのでぜひご覧ください。
ちょっとした変わり種としては二股竹がありました。会場の説明によると次のような理由で縁起物とされています。
天文年間に部垂義元が奉納したといわれています。根本は一株の竹が、途中から二株となって生育した突然変異の竹。縁起物として珍重され、子孫繁栄の祈願物として各地で寺社に奉納されています。義元も一族の繁栄を祈願して奉納したと考えられます。
たしかに神社の奉納品としてなんどか目にしたことがあります。一言主神社(常総市)だと霊験のしるしとして三股の竹を重宝しています。神社なのに「三竹山」の山号を称しているのでご存じの方も多いでしょう。
五行説で見る「部垂」と「甲神社」
ここからは古代中国の五行説を用いて当社を考えてみよう、という企画です。五行説は万物を木火土金水の5つの気に分類してその関係を説明するものです。
日本には仏教伝来と同時期の6世紀には伝えられたとされ、朝廷から民間に至るまで広く日本の民俗に影響しています。いわゆる神道や仏教、儒教なども例外ではなく修験道や陰陽道は特に顕著に現れています。
ただ、ここでお伝えしたいのは五行説が真理であるとかそれで真実がわかるといった極論ではなくて、教養として知っておくと違った見方ができるという程度のことです。ひとまず考え方を知っていただければ幸い。
今回、わたしが五行説で見たら面白そうと思ったのは、だれもが気になる当地名「部垂」と社号の「甲神社」です。これらの風変わりな名前にはどんな意味があるのかに迫ってみます。
まずは部垂。12世紀の『鹿島神社目録』に「辺垂」とあることから、「部」と「辺」はおそらく同じ意味で範囲や地域を示しています。「垂」は「垂れる」とか「懸垂」、「垂直」などと用いられるようにある高さから下方向に移動することを意味しています。つまり下がること、あるいは落ちること。
下がるや落ちるは「潤下」として五行説では水気の本性(特性)とされています。自然現象そのままですね。ちなみに水気と真逆の性質である火気は炎上を本性とし、それが成長や発展に通じると考えられてきました。
垂の字が使われた理由まではわかりませんが、五行説の視点から垂は水と関係の深い字といえます。
さて、五行説は気同士の関係を説明すると前述しましたが、そのひとつに「相生」があります。これはいわば気の親子関係で水気の場合は「水生木」といって木気を生む性質があります。
木気は五気の中で唯一生命を持っています。植物はもちろんのこと人間も含めて生物のすべては木気に関係すると言っていいでしょう。また、生物は基本的に動きますから、活動を後押しする気ともいえます。
甲神社の祭神はタケミカヅチです。神話の記述からも武神として名高く、武士に篤い信仰を受けてきました。その他にも安産の神徳があるともいわれ生気と密接な関係が見えることから木気に分類できる神です。
要するに水気を意味する土地に木気の神が鎮座しています。五行説における水生木の関係を示しているわけですが、タケミカヅチは常陸国ではありふれた神なので因果関係は弱いと言わざるを得ません。
五行説で扱う5つの気はじつは陽と陰に分割されます。すると5x2で全10種類の気となり、これを十干といいます。陽の気は強くて活発な兄、陰の気は柔和でおとなしい弟とし、対照的な性質を持っています。
木気であれば「木の兄」と「木の弟」に分けられ、これを本来の漢字一字で示すと「甲」と「乙」。社号に使われる文字が出てくるのです。武士が重視する「木気」が社号に由来したとする見方もできるのではないでしょうか。
さらに興味深いのは次のような事柄です。
境内地は部垂城跡東に位置し、もとは城内域に祀られていた城の守護神として、歴代城主の篤い信仰を受けてきたようです。
甲神社/常陸大宮市のたからもの
神社の鎮座地といえばいわゆる「鬼門除け」が有名です。鬼門は東北(北東と同じ)なので当社はそれにはあたりません。では東にはどのような意味があるのでしょうか。
上の配当表は方位を五気に分けて示しています。東は木気の正位にして気がもっとも強まる方位です。社号の甲、祭神のタケミカヅチ、鎮座地が東。これらは神社の性質を如実に示しているように思います。
繰り返しになりますが、ここではあくまで考え方を紹介しているに過ぎません。直接的な裏付けはありませんので、不明確な歴史や伝承を読み解く手段のひとつとしてご活用ください。
御朱印
甲神社と素鵞神社の御朱印です。ここ1年くらいの間にご祭神の印が誕生したようです。また、素鵞神社の方は近年に頒布を始めました。
社殿左側の社務所でいただけますが、ふだんは神職不在かと思います。建物の玄関の辺りに連絡先がありますので、そちらから問い合わせをしてみてください。
令和5年の集中曝涼では限定御朱印の頒布がありました。事前情報は無かったので驚きました。「神社」のないのは初めてかも。ユニークな御朱印をいただけて有り難し!
・創建には謎が多い。ご祭神は武甕槌命。
・集中曝涼は毎年秋。県指定文化財をはじめ多くの社宝が公開される
・「門神」は土着の神かもしれない
・部垂は水気、甲は木気で相生の関係。名称に五行説が関係しているかもしれない
・御朱印は宮司に連絡をとってからいただける
参考文献
茨城県神社誌/茨城県神社庁
茨城県の地名/編:平凡社
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。