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天台宗の天海といえば超有名な僧侶ですが、茨城県内のあちこちで名前を耳にします。
それ本当?ということも少なくないのですが、出てきたのなら無視しないわけにはいきません。県南地域にも意外と名前を残していますね。
この記事ではつくばみらい市の光明院(天台宗)をご紹介します。天海が再興したといわれる徳川ゆかりの寺院です!
光明院とは
由緒
『茨城の寺』をもとに由緒をご紹介します。
ご本尊は薬師如来です。祈願日は毎年11日とのことですが、秘仏なので開帳されることはありません。
ちなみに再興以前のご本尊は阿弥陀如来。寺号は阿弥陀寺だったそうですよ。
天海和尚によって再興、とありますが、上野の寛永寺を開山した「あの」天海和尚です。当寺は寛永寺の末寺にあたり、庫裏にはそれを示す天海和尚の書(写し)も飾られていました。
寛永寺といわれてもピンとこないかもしれませんが、幕末に徳川慶喜が謹慎した場所と言ったらどうでしょう。慶喜は鳥羽伏見の戦いで錦に御旗が翻ると、逆賊になることを恐れて江戸城に帰還。そして絶対恭順の意志を示すため寛永寺で謹慎したのでした。
三代将軍・家光が開基で四代将軍・家綱の霊廟が造影されてから徳川家の菩提寺となりました。徳川に大変ゆかりの深い寺院の末寺ということですね。
明治になって周辺の寺院が統合されました。境内は決して広くはないのですが、お手入れがしっかりされていて気持ちいいと思います。先代のご住職から花の寺としても知られています。
東国花の寺の11番です。代表的な花は4月下旬〜5月上旬に開花するツツジです。
アクセス
最寄り駅はつくばエクスプレスのみらい平駅です。駅から1.4kmほどなので、頑張れば徒歩でもいけるでしょう。
駐車場は本堂の近くにあります。県道3号から入れますので、無理に石段の前に駐車しなくて大丈夫です。
名称 | 廣厳山 音樹寺 光明院(天台宗) |
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住所 | 茨城県つくばみらい市西楢戸767 |
駐車場 | あり |
仁王像と山門
駐車場は本堂のすぐ近くなので、参道を逆走しないと見れない仁王像。個人で寄付されたようですが、非常に立派。筋骨隆々です。
神社の狛犬のように聖域を守護しているわけですが、山門の朱色も同じ意味です。山門と仁王像が揃うと寺院として整って見えますね。
本堂
間口が広く大変落ち着いた本堂です。
さほど古さを感じさせませんが、彫刻を見るとなかなか年季が入っていますね。少々色あせていますが、龍も虎も見事な造りです。
本堂や境内のあちこちに葵紋が見えました。やっぱり徳川のお寺ですね!
また、興味深いことに当時では昔から青年教育に力を入れていたそうで、住職が十八史略、論語、孟子などを教えていたとか。おそらく江戸時代の官学である朱子学を中心に教えていたのでしょう。
でも、四書五経でないとなると古学だったかも。。いや、徳川ゆかりならそれはないですか。
なお、光明院は江戸城の鬼門(北東)にあたることから、江戸城を守護する鬼門除けとしての意味もあったとか。本堂が西向きなのはそのせいですね。
安国院殿
本堂の左手に建てられた安国院殿。一見新しい建物に見えますが、じつは中に古い権現堂が入っています。江戸初期に建てられたそうなので、再興とほぼ同じ時期なのでしょう。
暗くてよく見えなかったのですが、細かい造りの神社のような建物があったような。。権現堂には徳川家康の木造が安置されています。
『茨城の寺』には、命日の4月17日に檀徒が集まり大般若転読会をしているとありますが。。いまもされているかは定かでありません。
安国院は徳川家康の院号(戒名)ですね。同じ目的の建物でも神社だと東照宮、お寺だと安国院殿となるのでしょうか?
隣の鐘楼堂の鐘は50年以上前に鋳造されました。前の梵鐘は戦中に徴収されてしまったのだとか。。戦後、比較的すぐに再鋳されましたから、それだけ大切な寺院だったのでしょう。
御朱印
光明院の御朱印です。御朱印料はそれぞれ300円です。
通常の御朱印と「東国花の寺ver」があります。通常の御朱印は綴(穴が空いている)になっているものもありました。
本堂向かって右手に庫裏からお声掛けください。
新型コロナ対策のため、現在は書き置きのみの対応です。
まとめ
この記事のまとめ
- 江戸時代初期に中興。寛永寺の末寺
- 境内には葵紋。安国院殿など徳川ゆかりを感じさせる
- 御朱印は本堂右手の庫裏でいただける
参考文献
茨城の寺(三)/今瀬文也
記事は筆者の主観が多分に含まれております。
誤解や情報が古くなっている場合があることをご了承ください。
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