【守谷の七不思議】高野のお化け石|守谷市

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wata

ども!いばらき観光マイスターのwata(@wata_ibamemo)です!

少し前にX(Twitter)で線刻のハッシュタグが話題になっていました。そんなの記憶にないなあと思っていたのですが、ひとつだけネタを持っていました!守谷市の「高野のお化け石」です。

50年ほど前に新聞やテレビで話題になったことがあるので、ご年配の方であればその時のことを覚えているかもしれません。じつは平将門伝説のひとつとして語られることもあるのでそちらについてもご紹介します。

この記事でわかること

  • 「お化け石」が話題になった時代
  • お化け石と平将門の関係
  • 隣接する日光大権現について

お化け石は「守谷の七不思議」として公式サイトで語られていますのでその部分を丸っと引用します。

昭和50年の夏、高野の仲坪地区にある不動明王の石碑に「人の顔が映っている」として、大変な騒ぎになったことがあります。

ある日、石碑の前で遊んでいた小学生の女の子が「石に顔が映っている」と言い出したのがきっかけとなり、近所の人たちが次々に見にいくようになりました。

ある人は髪の長い女が見えると言い、ある人は老人の顔だと言いました。

やがて噂が噂を呼び、7月に入ると新聞や週刊誌、テレビのワイドショーでも毎日のように「高野のお化け石」として報道されたので、大勢の見物客が押し寄せたのです。

見物客の中には石碑にお賽銭をあげる人がいて、だいぶたまったある時、このお賽銭が箱ごと盗まれてしまいました。

ところが、盗まれて1週間ほどたったころ、お賽銭を返しに来た人がいました。

その人の話によると、お賽銭を盗んだ人がその後バイクで交通事故を起こし、「これはお化け石の祟りだろうから、代わりにお賽銭を返して来てくれ」と頼まれたというのです。

こんなことがあって、8月になるとますます見物客が増えたのですが、秋風が吹くころになると訪ねてくる人もめっきり少なくなりました。

そして、だれかがスプレーで落書きすると、それ以来顔は見えなくなってしまったということです。

高野のお化け石|守谷市(公式)

以上の話はわたしも高野で耳にしております。ほぼすべて事実といってよいでしょう。スプレーはペンキであったとかチョンマゲをした男性であるとか若干は違うのですけど。

じつはこの話題は地元では平将門の霊と結び付けられることがあったのです。江原忠昭(当時水戸一高教諭)さんが『茨城の将門』で説明しているので一部引用します。

 高野の成田山不動尊の石碑は、明治三十一年十月十八日に茨城県筑波郡福岡村(現在の谷和原村福岡)の弘明ら講社の行者卓雄により建立されたものである。

 この地には七人影武者の供養塔や将門の開基でその子孫相馬氏にも縁の深い海禅寺、また将門皇城の地とされる守谷城址などもあって、重要な本拠地の一つだったという説がある。

 そこに将門調伏の中心になった成田山不動明王が進出したので、将門の怨霊が怒って現れたのだと噂されるようになり、「ばけ不動」の名が生まれた。説明によると、石碑の中央上面に毛彫されている成田山不動明王を、将門と見られる人の顔が右側からにらんでいる。ここまで説明されても見えない人は、将門に好意を持たない人、不動明王を信じない人とされ、軽蔑されるような気もするふん囲気であった。

茨城の将門 P191

守谷市周辺の方でないと分からないと思いますが、この辺りは平将門を逆臣や朝敵とは捉えていません。むしろ英雄視するくらいですから、そこに将門調伏の本尊があるのは少なからず違和感があります。

そこで幽霊が話題になれば怨霊、将門公のように発展してしまったのかもしれません。実際にそういう姿を見た方がいるかもしれないので真相は分かりませんけれど。

不動尊があるのは前述の海禅寺から徒歩5分ほどです。同寺については過去に記事にしておりますので興味のある方はぜひご参照ください。

wata

石碑の場所は地元の方々の憩いの場です。ある意味でパワースポット。春になれば桜が美しい公園です。

平将門公の崇敬者は成田山にお参りしないといわれます。

アクセス

名称成田山不動尊
住所茨城県守谷市高野
駐車場あり
Webサイトなし

不動明王の石碑

鉄柵で保護された不動明王の石碑
鉄柵で保護された不動明王の石碑

「ばけ不動」とも呼ばれる石碑は住宅街にある神社の境内に鎮座しています。意外に簡単に見つかったのですが、やや境内が狭いので駐車には苦労しました。

昔はむき出しだったと思いますが、今は鉄柵と金網によって保護されています。いくつか並ぶ石碑のうち、お不動は中心のもっとも大きなものです。

不動明王像
不動明王像

こちらがそのお不動。坐像で右手に利剣、左手に羂索を持っています。口はしっかりと噤んでおり、頭には蓮の花らしきものが見えました。基本的には成田山と同じですね。昔は彫りが今よりもっとくっきり見えたとか。

制多迦童子と矜羯羅童子
制多迦童子と矜羯羅童子

お不動像の下には「成田山」の文字と…たぶん制多迦童子せいたかどうじ矜羯羅童子こんがらどうじです。しかし童子には見えない。明らかにおっさん。いやいや、それはわたしの目が良くないせいかもしれない。

不動明王の顔
不動明王の顔

人の顔が見えたとかいうのは、この顔の隣辺りでしょうか。たしかに見る角度によって光の反射が色々と変化するので濃淡と線で顔の輪郭のように見えることはあるのかも。

お不動の向かって右手にあるのは十九夜塔と大黒天。月待塔はどこにでもありますが、このサイズの大黒天の石造はややレア。

海禅寺は弁天信仰もあるようですし、周辺には七福神信仰があるのでしょうか。そういえば近くの特養は「七福神」といいます。気になる関係が続きます。

日光大権現

日光大権現
日光大権現

ところで、お不動の隣には日光大権現が鎮座しています。見るからには神社なのですが、『茨城県神社誌』には掲載されていません。「大権現」は神仏習合時代の呼称ですから明治以降は正式な社号とはされません。

この神社の祭祀はどうだったのでしょう。神職か社僧か、それとも存在自体が神仏習合ともいえる修験が奉仕したのか。お不動の建立は行者(修験・山伏と同系)ですから、両者はまったくの無関係ではないはず。

扁額
扁額

当地高野の浅間神社(旧村社)は豊城入彦命が配祀されています。これは明治期に二荒神社を合祀したためと思われますが、だとすればそこには修験道の流れがあったのでしょう。

守谷、特に高野は相馬氏ゆかりの地で将門伝説が数多くある土地です。しかし近世には修験の布教によってそれまでと違った信仰が生じていたのかもしれませんね。

まとめ

・守谷のお化け石は昭和50年に話題になった

・お不動が成田山の本尊なので、調伏された将門公がにらんでいるといわれた

・隣接する日光大権現はお不動と同様に行者(修験)が関係したと思われる

参考文献

茨城の将門|瀬谷義彦・志田諄一・江原忠昭