村松の大神宮|東海村

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ども!いばらき観光マイスターのwata(@wata_ibamemo)です!

この記事でわかること
  • 由緒とご祭神
  • 境内社の青嵐神社について
  • 御朱印のいただき方

少し前に東海村白方の豊受とようけ皇大神宮をご紹介しました。豊受大神をお祀る神社で伊勢の外宮から分霊したといわれています。

そちらを紹介したのであれば、もちろん内宮を忘れてはいけません。今回は同村の村松に鎮座する大神宮です。東海では虚空蔵堂に並んで著名な神社ではないでしょうか。ちなみに2つの社寺は隣接しています。

白方の豊受皇大神宮|東海村

村松大神宮とは

大神宮

大神宮

由緒

和銅元年/708年
創建
神社明細帳によると 「和銅元年(西暦708年)4月7日平磯前浦の巨巌怪光を発射しその光眞崎の浦に留る。住民畏れて占う。『伊勢の神なり』と。垂示に従って奉斎。祀職伊勢より来りて奉仕す。」 ※公式サイト
大同年間/806-810年
神号と御字を賜る
平城天皇より「村松五所大明神」の神号、嵯峨天皇より御字を賜る
康平3年/1060年
戦勝祈願および造営
源頼義および義家親子が東征の途中に戦勝祈願。社殿を造営、神領を寄進。
永享7年/1435年
遷座
奥州名取郡藤塚に遷座
江戸時代初期
朱印地を賜る
徳川幕府より朱印地33石1斗9升と神地20余町を賜る
元禄7年/1694年
社殿造営
水戸藩主徳川光圀の命により社殿造営
元禄9年/1696年
分霊
水戸藩主徳川光圀の命により伊勢の内宮より分霊。大神宮と尊称。多くの神宝、神器が奉納。後に正月15日を藩主参拝の例とした。
天保4年/1833年
藩主参拝
5月2日、水戸藩主徳川斉昭が参拝
安政7年/1860年
造営
社殿造営。長砂、照沼、横道、足崎、高野の鎮守だった
明治5年/1872年
郷社列格
明治32年/1899年
火災により社殿焼失
明治34年/1901年
拝殿および本殿再建
明治40年/1907年
供進指定
昭和15年/1940年
大鳥居建立
昭和27年/1952年
宗教法人設立
昭和46年/1971年
二の鳥居建立
昭和49年/1974年
神楽殿(神輿庫)改築および本殿屋根改修
平成9年/1997年
社号標建立および社務所新築

ご祭神は天照あまてらす大神です。それに天手力男あめのたぢからお萬幡豊秋津姫神よろずはたとよあきつひめを配祀しています。

天照大神は言わずとしれた皇祖神。その孫にあたるのが邇邇芸命で命が高天原から地上に降り立ったことを天孫降臨といいます。それに同伴した神々は複数いて、それぞれの子孫は皇室と関係が深い氏族として活躍します。

皇室の起源は古すぎて不詳ながら少なく見積もっても千三百年以上の歴史。それだけ長く続いている事実は他国と比較して安定した体制だった証拠です。皇室が尊い理由はなによりそこにあるといえるでしょう。

それだけ尊い存在ならさぞ古くから信仰されたはずと思いきや、じつは庶民が天照大神を「直接」信仰するようになったのは中世から。『日本書紀』によれば、内宮は今から二千年ほど前の創建ですが、その間に世の中の変化があったということでしょう。その簡単な説明は豊受皇大神宮(白方)の記事からどうぞ。

また、中世には本尊を虚空蔵とする神宮寺があったといい、それにより祭祀が乱れ社殿が焼かれる等の災難が生じたと伝えられます。同寺の創建は天台僧らしき「慈覚」によるというのも気になるところですね。

当社の特徴で興味深いのは旧暦正月15日の春祭です。おそらく伊勢にはないので当社独自の思想に基づくのでしょう。筒粥神事でその年の収穫を占うそうですが、この日には歴代の水戸藩主も参拝するほど重視されました。なお、豊受皇大神宮も同日に執り行うことになっています。

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当社を内宮とし白方の豊受皇大神宮は外宮にあたり二社は伊勢同様に対の存在といわれます。創建は1年違い、江戸期の分霊も同時期とされています。

アクセス

最寄りのICは常磐道の東海スマートIC。下りてから約15分ほど。大きな通りが続くので迷うことはないでしょう。

お隣の虚空蔵堂と違って隣接した広い駐車場があります。大鳥居の前に通行止めの標識がありますが、駐車場はその先です。虚空蔵堂に行く方は利用できないのでご注意ください。

名称大神宮
住所茨城県那珂郡東海村村松一番
駐車場あり
Webサイト公式サイト
年間行事1月1日…元旦祭
旧1月15日…春季大祭
旧2月17日…記念祭
旧3月7日…神幸競馬祭(やんさまち)
旧3月13日…奉射祈願祭
旧9月29日…秋季大祭
11月23日…新嘗祭

鳥居

一の鳥居

一の鳥居

大神宮の鳥居はふたつ。写真は一の鳥居でこの先に駐車場がありますので、車に乗ったまま通り過ぎるかと思います。

初めてお参りしたときは標識の通行止めのほうが気になってしまって戸惑いましたが。。よく見ると鳥居の「貫」の部分に駐車場は直進とあるんですよね。遠慮なくどうぞ。

二の鳥居

二の鳥居

駐車場は二の鳥居の右側にあります。この鳥居は歩いてくぐれますよ。それにしても立派!

鳥居よりもさらに大きい社号標の裏手を見ると「内閣官房長官 梶山静六」。茨城を代表する政治家ですね。官房長官は総理大臣候補の就く役職。梶山氏は茨城出身でもっとも総理の座に近い存在だったかと思います。

出世参道

出世参道

鳥居の先は「出世参道」。歩けば出世すると。。これは何度も往復しなくてはいけませんね。先の梶山氏も歩いたのでしょうか。

ところで、神宮の公式サイトには面白い記述が見えます。

なぜ内宮は右側通行、外宮は左側通行なのですか?
神宮(公式サイト)

これはわたしも知りませんでした。神宮は次のように回答しています。

古い書物などを読んでもその理由ははっきりと書かれていませんが、参道の外側を通って神前に進んだ参拝者の「慎みの心」の表れと考えられます。また、参拝前にお清めをする御手洗場が内宮は右側、外宮は左側であったことも理由と考えられます。
神宮(公式サイト)

内宮の参道は「右」、外宮は「左」側を通るそうです。神宮はその理由がよくわからないとしていますが、わたしは陰陽説に由来すると思います。

陰陽説は古代中国に発祥した思想で仏教伝来と同じかその前後に日本に渡来したといわれています。万物は陰と陽の「気」によって成り立つとする考え方で、それに基づけば陰には右、内、女性などが属します。

これは非常に重要なことで外宮の創建にもつながるのではないかと思います。この後に紹介しますが、両神宮の本殿の造りも陰陽が表現されているので注目です。

参道

参道

ただし、神宮や天照大神に対する信仰に中国の思想が関係するのは当初からではないと思います。話が複雑になるので省略しますが、本地垂迹説のように元ある信仰を研究をする過程でそのような考え方が生じたのでしょう。

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天照大神は伊邪那岐命が「左目」を洗ったときに誕生しました。それに太陽神ですから陰の神とはいえません。内宮が示す神格と異なるところが面白いですね。

参道

駐車場側の手水舎

駐車場側の手水舎

当社の手水舎は二箇所。駐車場側と社殿側にあります。駐車場側はだいぶ新しいらしく、センサーが柄杓に反応して水を出す仕組み。衛生的ですね。

易占いのくじ

易占いのくじ

その反対側にあるのが易占いのくじ。易は先の陰陽説と同様の古代中国の思想で6世紀前後に日本に輸入されたと考えられています。その内容は『易経』にまとめられ、易者は易で占う人ですね。

易では前述の陰陽をこうの記号で表現し、その組み合わせによって陰陽の状況を判断します。陰陽は決まった法則によって変化するので、今がわかれば未来を予知できるというわけです。

地天泰の卦

地天泰の卦

神秘の文字の間にあるのが爻を組み合わせた卦です。爻は陰陽の2つを表し、それが6つあるから2の6乗の64種類。爻を6つ使った卦は六十四卦と呼ばれます。3つだと八卦ですね。

神宮の公式サイト「変わらないために、変えるということ」と書かれています。詳細は同サイトをご覧いただくとして、じつは易には貿易とか交易の文字に使われるように「変化する」の意味があります。

「易わる、易わらない、易しい」(変わる、変わらない、簡単)が、易の三大原則。長くなにかを続けていくためには易の思想も重視されたと思います。内宮と外宮が陰陽を表すなら、それを発展させた易と無縁ではないはず。

義公が腰掛けた石

義公が腰掛けた石

参道の石段を上った先、左手に見えるのが義公(徳川光圀)が腰掛けたという石。さすがに直にではないでしょうが、水戸藩ゆかりの神社らしいですね。

烈公お手植えの白梅

烈公お手植えの白梅

その先にあるのは烈公(徳川斉昭)お手植えの白梅。150年ほど経っていることになるので、ひこばえが見えるものの樹齢的には末期でしょうか。

義公と烈公はいずれも梅をよく好みました。大陸から伝わった植物なので同じ由来を持つ学問(儒教等)や文化のシンボルとして親しんだのではないかと思います。

社殿

拝殿

拝殿

入母屋造の立派な拝殿です。幕にある立派な菊花紋が目立っていますね。面白いことに社殿は南西向きです。明治期に再建したので新しく見えます。

賽銭箱

賽銭箱

伊勢にはない賽銭箱を発見。同じ神宮でも地域によって色々。だからこそ地域の人に親しまれるのでしょう。

唯一神明造りの本殿

唯一神明造りの本殿

かなり見にくいのですが、本殿は女千木で鰹木が10本。女性や偶数、内側は陰陽説では陰。内宮を表現した造りとなっています。女千木は「内」削ぎなので「内」宮に通じているのでしょう。

屋根は前後が同じ長さなので県内でよく見る流造ではありません。隙間から微妙に見える棟持柱から考えると神宮と同じ唯一神明造りなのでしょう。

扁額

扁額

境内の案内板によれば当初は五所明神と称し、伊勢、賀茂、祇園、稲荷、春日の五社をあわせて祀っていたそう。ただ、伊勢以外は当社よりも後年の創建なので、そのように伝わる背景が気になりますね。

ところで、神宮といえば20年おきに社殿を建て替える式年遷宮。これもまた詳しい理由はわかっていませんが、20年のサイクルは元旦と立春が重なることや『朔旦冬至』のあることに関係するのでは、という説があります。

要するに旧暦(太陰暦)が太陽暦の事象が重なるわけです。旧暦は現実の季節と必ずしも一致しないので、暦の重なる年は極めて神聖に感じたのかもしれませんね。

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村松では大神宮の田植えが終わらないうちはそれより下の地域は神様に遠慮して田植えをしない「しきたり」があったそうですよ。

境内社:晴嵐神社

晴嵐神社

晴嵐神社

大神宮の拝殿の北方にある晴嵐せいらん神社。御祭神は「鹿島・香取・大洗・酒列さかつらの神を祀る」とあります。

それに続き「官立(国の執行機関)呼吸器 不治難病の全快・平癒祈願社」とあり、果たしてどんな性質の神社かと考えていたところ、公式サイトで次のような説明がされていました。

昭和の初期、大神宮のすぐそばに所在する「国立療養所 晴嵐荘病院」の小高い丘に「病気平癒・治療成就・医学の発展」を祈願し、「医学・薬学」の神様である「大己貴神」を御祭神として祠を建て祭ったのが始まりです。
晴嵐荘病院は日本初の国立療養所で、当時不治の病といわれた「結核専門」の療養所でした。終戦後、政教分離政策により、国立の施設内に神社の存在を認めることが出来ないという理由で、遷座せざるお得なくなり、職員・崇敬者の篤い要望により、大神宮末社として現在地に御鎮座となりました。
現在でも、病気に悩む方々の心の拠り所として、参拝される方が数多く、肺癌治療に臨んだ大神宮の職員も4ヶ月に亘る治療の効果が大いにあり、退院し神明奉仕に復帰するほど回復しました。
大神宮(公式サイト)

病院内にあった神社が時代の苦難により遷座されたということでした。結核の治療が行われたので咳や呼吸器治癒のご神徳があるとされているのですね。なるほど、歴史ありです。

晴嵐神社の側面

晴嵐神社の側面

大洗・酒列の神は『延喜式』の時代から薬師の神でした。鹿島・香取は武神の印象が強いかもしれませんが、つまるところ生き残るために崇敬された神です。医療従事者や患者が祈願するにふさわしかったのでしょう。

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『晴嵐』は当地が水戸八景の「村松晴嵐」に数えられているせいではないでしょうか。

なで犬

なで犬

なで犬

拝殿の前にあるのは、なで犬。イヌ好きにはたまらないですね。かわいい。

戌参りで知られるように、犬は安産や子育て子宝に恵まれるといったご神徳を持つといわれています。ただ、このように干支の数だけ犬が並ぶ光景はここにしかないかもしれません。

それではここで五行説を用いた犬の解釈をご紹介しましょう。五行説は陰陽五行説ともいわれるように陰陽説と密接な関係がある思想でやはり古代中国で発祥しました。

その五行説には「比和」といって、木火土金水の5つの気は同じ気同士は合わさることで強化されるとする考えがあります。自分の干支は自分と同じ気なので触れたり身近に置くことで自分の気を高められるのでしょう。

安産や子育てのご神徳があるとして戌の日にお参りをするのはそうした思想が根底にあるからではないでしょうか。

神幸競馬祭(ヤンサマチ)

当社の例祭で特に興味深いのが旧暦の3月7日に執り行われた神幸競馬祭です。説明を公式サイトから引用します。

俗にヤンサアマチと呼ばれます。神輿が磯崎の浦へ神幸渡御し、近隣四十八ヶ村が神輿を奉じて磯出をします。氏子の中より駿馬六頭を選出し神鉾を捧げて村松海岸より磯崎の浦にある「酒列磯前神社(さかつらいそざきじんじゃ)」までの二里八町(約10km)の海岸で競馬を行います。この祭典は中世に廃絶したものを、元禄九年徳川光圀公が復興しました。光圀公はこの祭典に臨まれたとき、次の詠を詠まれました。「千早振る 神の磯出のくらべ馬 しき波かけて 今日きそうなり」
現在は海岸線が開発によりなくなり、競馬を行うことができず、祭典のみ執り行われます。
大神宮(公式サイト)

社殿内で行われる神事とは大きく違っていて、現代で実施すれば奇祭と呼ばれるかもしれませんね。茨城県が運営する『いばらきの伝統文化』によれば、静神社の浜降り神事と連動していることや競馬によって豊年を祈願したとか。

すでに往年の姿はありませんが、この祭りでわたしが気になるのは易との関係。神事の中で競馬が重要な意味を持つことは間違いなく、その結果が決まっているわけでないのなら占いの要素を強く感じます。

当社が重視していた正月15日の筒粥神事も本質は占いです。『東海村のむかし話と伝説』によれば、かゆ鍋の中で煮た3種類の米の状態によって作付を決めたとあります。ちなみに静神社でも同日・同名の神事があります。

さて、占いの書でもある『易経』をもとに八卦を配当すると上の図(後天易図)のようになります。八卦にはそれぞれ象、つまり象徴とするものが設定されていて、「乾」でいえば「父」「健」「天」などです。同書の『説卦伝』にはここにない象がたくさん載っているので気になる方はご覧ください。

ヤンサマチでは六頭の馬が海岸を走るとのことですが、これを易の思想で読み解いてみると次のような解釈ができるでしょうか。

  1. 馬は乾の象 *『説卦伝』参照
  2. 海岸は乾の方位(西北)を意味する。海は水であり坎。坎は北を意味するからその西にある海岸は西北。西北は乾の象
  3. 六は九星で西北を意味するから乾と同じ *九星は洛書を漢数字で示したもの

天照大神を「天」とすれば、天と同じ乾に属するあれこれを用いて将来を占っていると考えられる。。とか。

ところで、かつて大神宮の神領であった東海村内の阿漕ヶ浦あこぎがうらには白い魚や片目の魚の伝説があります。というか、実際に獲ったという方のいらっしゃるようです。(参考:阿漕ヶ浦|茨城いすゞ自動車株式会社

阿漕ヶ浦は伊勢の阿漕ヶ浦にちなんで名付けられ、魚も同池から運んできましたが、その途中で片目を潰してしまい。。という理由だそう。しかし、これもまた易との関係が考えられます。

乾には白(九星とあわせて「六白」という)があてられ、乾は極陽の卦であることから陰がありません。陰=右ですから、片目の魚は左目しかないということではないでしょうか。

内宮は陰の存在のはずなのに、この時代の神事や伝説では陽と思われているようです。天照大神は太陽神ですから、その解釈は自然ですけどね。陰陽説が根底にありつつも時代によって違った解釈がされたのではと思います。

易については「ワケワカラン」かもしれませんが、ここでお伝えしたいのは時代によって神々の捉え方は違っているし、古くは現代と違う哲学が用いられた可能性が高いということです。

頭の中で古い哲学を再現できれば当時の信仰を読み取れるのではないかと思います。一度参拝した寺社を別の解釈ができるのは面白いので、余裕のある方はぜひ学んでみてください。

祭りで演じられるやんさ太鼓は現代にも受け継がれ、YouTubeで公開されていますよ!競馬の再現は難しいので、伝統芸能に触れて楽しみましょう♪

御朱印

大神宮の御朱印

大神宮の御朱印

村松大神宮の御朱印です。社伝向かって右手の授与所でいただけます。

晴嵐神社(境内社)の御朱印

晴嵐神社(境内社)の御朱印

境内社の晴嵐神社の御朱印は書き置きのみになるかと思います。

まとめ

この記事のまとめ

  • 御祭神は伊勢から分霊した天照大神。古くは五所明神と称した
  • 晴嵐神社は病院内から遷された
  • 御朱印は境内社の晴嵐神社とあわせて2種類

参考文献

茨城県神社誌/茨城県神社庁
茨城県の地名/編:平凡社

この記事で紹介した本はこちら

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