関東三雷神 金村別雷神社|由緒・御朱印・茶釜雷神伝説|つくば市

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wata

ども!いばらき観光マイスターのwata(@wata_ibamemo)です!

ようこそ、いらっしゃいませ。この記事は茨城見聞録の初めての記事です。

このブログは埋もれてしまっている茨城の魅力を掘り起こすもの。日々の生活に役立つことは少ないですが、ほんの少しでも楽しくなっていただけたら嬉しいです。

初回は関東三雷神のひとつ、つくば市の金村別雷かなむらわけいかづち神社をご紹介します。色々書きますが、なにも覚える必要はありません。気軽に読んでください♪

この記事でわかること

  • 神社の龍伝説
  • 「つぐみ龍」と拝殿の天井絵の関係
  • 「茶釜雷神」の民話
  • 御朱印のいただき方
一の鳥居
一の鳥居

由緒

承平元年/931年
創建

領主である豊田公の夢枕に大神出現。霊告により西京加茂別雷大神を分霊し、当地に鎮祭する。

康平5年/1062年
大神顕現

天喜年間(1053-1058年)、豊田四郎将基が奥州平定に向かう源頼義親子から副将を拝命して従軍する。

康平5年の衣川の戦いの際、増水により進軍できないでいると、豊田公を守護する大神が旗印から顕現して橋をかける。それにより敵軍を撃破することに成功。旗は後冷泉天皇より下賜されたつむぎ龍紋の神旗で当社の重宝である。

天正6年/1578年
別当による奉斎

安芸守治親の代で下妻城主である多賀谷重経により豊田氏は滅ぼされる。以降、僧の純然が別当となり大神は金村雷光山明光院によって奉斎される。しかし当社に対する村民の崇敬は豊田氏の時代と変わらず続いた。

明治初期
別当(明光院)が廃寺となる

明光院の廃寺により社伝の多くが散失。往時であった宝永年間以降についてわずかに分かるのみとなった。

明治6年/1873年
郷社列格

明治40年/1907年
供進指定

昭和5年/1930年
一千年祭を厳修

昭和17年/1942年
拝殿の天井絵完成

皇紀2600年記念事業として昭和15年から作成。2年をかけて完成する。

昭和25年/1950年
茨城百景選出

神域が茨城百景に数えられる

昭和27年/1952年
宗教法人設立
正徳元年/1711
本殿建立

※棟札による

天保2年/1831年
覆屋建立

明治12年/1879年
拝殿建立

*『いばらきの装飾社殿』より

大正13年/1924年
大鳥居(一の鳥居)建立

*東宮御成婚記念

昭和53年/1978年
二の鳥居建立
昭和55年/1980年
屋根葺替

屋根を銅板葺に葺き替え。

令和5年/2023年
国旗掲揚台建立およびさざれ石設置

新型コロナウィルス退散の祈願祭の斎行を記念して建立

御神影
御神影

御祭神は別雷わけいかづち大神です。文字通り雷神として知られる神ですが、当社の由緒によると龍神の姿をしているそう。旗印から飛び出したとありますから、いまに伝わる「つむぎ竜紋」はぜひとも御覧いただきたいところ。神旗は現存するともいわれているので、機会があれば拝見したいですね。

上記の由緒は主に『茨城県神社誌』を参考にしました。近世まで神仏習合であった神社は珍しくありませんが、現代になってもそれを伝える神社は少数です。数百年間もの長きにわたり役目を果たしていたのですから、このようにしっかり伝えていくことは先人たちに報いることになるのではないでしょうか。

なお、2023年10月現在、当社の社務所では白木神輿の補修費の募金活動をされています。それによると神輿は神仏習合時代の面影をのぞかせるもので神輿正面に鳥居、屋根妻側上部に卍があるとのこと。習合時代は仏教側がやや優位という個人的な印象があるのですが、当社の場合は対等の関係だったようですね。

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雷神は悪夢や災難を退治すると云われているため、領主にとってありがたい存在だったのでしょう。
文化財一覧

昭和55年(1980年) 拝殿・神楽殿・回廊(市指定)
平成3年(1991年) 金村別雷神社本殿(附棟札1枚)・本殿覆屋(県指定)

アクセス

小貝川のほとりにあって川を渡れば常総市。詳しい住所は後述しますが、見ての通りの立地。たどり着くには少々険しい道を走りますので運転にはご注意を。

駐車場位置
駐車場位置

駐車場は一の鳥居の前と社殿の東側の2ヶ所です。写真の赤で囲ってある辺りです。

いずれも広くて停めやすいのですが、行き着くまで小貝川の堤防を走る非常に細い道路を通ります。

名称(金村)別雷神社
住所茨城県つくば市上郷8319−1
駐車場一の鳥居の手前に数台駐車可
Webサイトなし

鳥居と参道

一の鳥居
一の鳥居

はじめにこの神社に興味を持ったのは元旦にユニークな神事があったからなんです。金村別雷神社に御目覚祭といって、ご祭神が目覚める儀式をします。変わってますよね!

ただ、残念ながらわたしが遅刻したせいで神事には参加できませんでした。ご紹介できずにごめんなさい。御目覚祭は改めるとして金村別雷神社のご紹介をします。

境内の入り口はこの大鳥居。足の部分には「東宮御成婚記念」とありました。東宮は皇太子のことですね。古い哲学書である『易書』には帝は東方より生じるという記述があることに由来し、五行説の考え方でもあります。

さらに余談ですが、東は五行説で木気の方位です。季節だと春を示すことから皇太子を春宮はるのみやと訓む場合があります。

参道の巨木
参道の巨木

参道沿いには名物のエノキとケヤキ。樹齢500年ほどといわれ、当社の御神木とされています。なんど見ても圧倒される大きさ。やや偏った形状もあって、もしかしたら枝が落ちてくる心配があるかもしれませんね。

二の鳥居の手前に見える狛犬。手彫りの味わいが伝わる名作ではないでしょうか。阿像のほうは顔の部分がずいぶん欠けてしまっているのが残念。

二の鳥居
二の鳥居

一の鳥居をくぐって50mほど進むと二の鳥居です。こちらにも立派な社号標があります。

茨城百景」と掘られていますね。金村別雷神社から見る福岡堰が百景に数えられているそうです。ずいぶん遠い気がしますけど本当に見えるのかな。。

拝殿

拝殿
拝殿

社殿は時代を感じさせる色合い。紅葉の時期は黄金の輝きのような銀杏並木との美しいコラボを楽しめますよ。(ちょっぴり匂いが気になりますけどね)

つくばとはいえ少々足を運びにくい場所なので、参拝者は多くありません。でも、境内はいつも整備されていて、心穏やかに参拝できます。

八方睨みの龍
八方睨みの龍

社殿で注目されるのは本殿の方ですが、拝殿にも見逃せない箇所がいくつかあります。そのひとつが正面に見える「八方睨みの龍」。じつは茨城を代表する彫刻家である後藤縫殿助ぬいのすけの作です。

「八方睨み」はどの方位から見ても睨まれているように見える、という意味です。立体的であることはもちろん、よほど見られることを意識しなくては作り上げることは不可能でしょう。

この彫刻の裏には「花紋賞牌拝受後藤縫殿助」と刻銘されています。同賞は明治10年に上野で開催された博覧会で受賞したもので、縫殿助にとって誇りだったのでしょう。また「当所神谷守立川彌平寄進」とも記されています。

着色は近年のものなのでやや魅力を失っているという声があるものの、それでも見事であることに違いありません。

旗印にして神紋にもなっている「つむぎ龍」は拝殿のいたるところで目にします。賽銭箱、大棟、瓦など、微妙にデザインが違うので見つけて比較してみるのも面白いですよ!小さくてよく見えないことが多々ありますけど。

ちなみにこのデザインは後冷泉天皇から下賜された神旗をもとに先代の宮司が制作しました。芸術の専門学校に通っていらしたそうで、並の技量ではないことが分かります。そしてそれは天井絵にも…

拝殿の天井絵
拝殿の天井絵

社殿の天井といえば、龍や鳳凰などの絵を思い浮かべるでしょう。しかしこちらは一味違っていてお野菜の天井絵があるんです。その数なんと116枚!

カブの天井絵
カブの天井絵

ひとつひとつが個性的に描かれています。たとえばこのカブはまるで下から見上げたかのようなアングルですよね。丸々と大きく実ってネズミがガブっとかぶりつき!イキイキしていると思いませんか?

こちらは三日月と瓜。緑色にしそうなものですが、こちらは夜なので暗い青。トゲトゲした葉の中に混じってコウモリが飛んでいるという工夫です。斬新!

天井絵は皇紀2600年(1940年)の記念事業としてはじまり、昭和17年(1942年)に完成しました。五穀豊穣を願って先代の宮司が描かれたのです。中に入らないとよく見ませんので機会があればじっくりお楽しみください♪

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雷神様は雨の恵みを与えてくれる存在。百姓の多かった地域で信仰を集めるのも納得ですね!

本殿

覆屋
覆屋

当社に参拝したらぜひご覧になっていただきたいのが本殿の彫刻です。拝殿に続く廊下をくぐるようにして奥に進むと、巨大な覆屋によって保護された本殿を見ることができます。覆屋もまた文化財登録されるほど見事ですよ。

本殿
本殿

遠方からでもなにやら細かな造りであることが伺えます。一応通路のようなものがあるので近づいてみると、そこには驚きの光景が。。社殿の概要を『いばらきの装飾社殿』から引用します。

 本殿は棟札によると正徳元年(一七一一)八月に上棟した一間社流造で、屋根は柿葺である。天保二年(一人三一)建立の覆屋に保護されているために腐朽は少ない。妻飾りは斗供と大瓶束を用いた二重混成複合式で、上部の虹梁を力神が渾身の力で支えている。軒組は二手先で、肘木の中央に木鼻のような竜頭をつけ、軒は二軒繁垂木である。軒回りは蛇腹支輪で、頭貫を支える暮股の花鳥獣の彫刻は江戸中期の特色で股内から食み出ている。牡丹の彫刻を施した手挟は見るからに堅牢であるが繋虹梁はない。縁は三方に回して、四隅に竜頭の木鼻がつく。縁組物は三手先で上部肘木の中央に象頭を取りつけた手の込んだ細工である。
 身舎外壁にも精緻な彫刻が施されている。正面の小脇羽目板の「鯉の滝昇り」は、黄河上流の難所である急流を鯉が昇りきれば竜になる(登竜門)という故事にならい、古くから画題に取りあげられていた。


いばらきの装飾社殿

彫刻の中でも注目される羽目板は「李白観瀑図」「林和靖」「囲碁」です。

李白観瀑図
李白観瀑図

李白観瀑図は向かって左側です。滝の前に老人と童子があるので分かりやすいですね。漢籍に疎いのであまり詳しく紹介できないのですが、李白は唐代の漢詩の達人のことかと思います。

林和靖
林和靖

李白観瀑図の対面にあるのが「林和靖」です。満開の梅林と和靖、そして童子が描かれた美しい構図となっています。

本殿背面の羽目板部
本殿背面の羽目板部

本殿背面の「囲碁」はおそらく盗難に遭ってしまい見ることが叶いません。『いばらきの装飾社殿』によると囲碁で対局するシーンが描かれていたそう。脇障子も穴が空いてしまっていてなんとも残念なことです。

また、正面の「鯉の滝登り」なども失われていました。文化財は大切に保護しても永久不滅ということはありません。見れるうちに見て、対策がとれるうちにとるのが肝要かと思います。

覆屋の柱の隙間は比較的大きく、肉眼で見る分には不自由しません。少々暗いのが問題ですが、充分に楽しめますよ!

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じつはこの本殿には白蛇が守護神として住んでいるというウワサが…

竹垣代官徳政之碑

竹垣代官徳政之碑
竹垣代官徳政之碑

訪れたらぜひ竹垣たけがき代官徳政之碑をご覧ください。この地にとって重要な史跡です。

パンフレットから引用します。

寛政5年(1793年)この地を支配した竹垣直温(なおひろ/なおあつ)は、度重なる天災で疲弊していたこの地域に上郷陣屋を設置し、現代の子供手当ともいうべき小児養育金を支給し間引きを禁じ、様々な勧農政策を施し農民の自立を促す民政の刷新を行った。よって碑設立後、お参りしこの碑をなでると子宝・子授・安産の願いが叶うといわれている。

金村別雷神社パンフレットより

かつてこの地は農業が難しく、人足寄場(いまでいう刑務所)がありました。つまり、貧しい上に治安があまりよくなかった。竹垣代官はそんな土地で人々の経済を立て直して不幸な命を減らしました。

ちなみに代官の任官は寛政5年(1793年)から文化11年(1814年)までの21年間。範囲は安房・上総・下総・常陸・下野国の約6万石に及びます。亡くなったのは退官の翌年。生涯を治政に尽くしました。

この頌徳碑は亡くなった文化12年(1815年)のうちに建てられました。それだけ感謝の思いが強かったのでしょう。

竹垣代官の紙芝居
竹垣代官の紙芝居

令和5年には代官の徳政を広く知らせるため紙芝居を制作。当社の節分祭などで披露しております。無理な徴税で人々を疲弊させ、却って税収が減ることにならないよう、政治家の方々にもご理解いただきたい内容です!

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竹垣直温は栃木でも同様の善政を行ったため、いまだに栃木からお参りに来る方々がいます

雷神さまの骨董市

境内の張り紙によると毎月第2土曜日の午前6時〜午後3時まで雷神さまの骨董市が開かれています。

ずいぶん早い時間からなのでマルシェともいえそうですね。この市を検索されている方が多いのでご参考に♪

御朱印

金村別雷神社の御朱印
金村別雷神社の御朱印

金村別雷神社の御朱印です♪独特の書体ですよね。参道の左手にある社務所でいただけます。

民話『茶釜雷神』

この神社には雷神様にちなんだユニークな民話があります。現代にもゆかりの場所がありますので、ぜひご一読ください♪

 明治の初めごろ。大穂地区(いまのつくば市内)と千代川村(いまの下妻市)にまたがる茂鹿もしかというところは、毎年のように水害に悩まされていました。

 ある日、茂鹿の農家の主人が災いから逃れようと、金村別雷神社でお祈りをしたときのこと。

 主人は冗談好きだったので、いつもの調子で言いました。「雷神様。たまには家に遊びに来てください。熱いお茶の一杯でも差し上げますから」雷神様は、たくさんの願いを叶えることに忙しかったのですが「頼まれたら仕方ない」と合間を見て主人のもとに行くことを決めました。

 それからしばらくたった夏の暑い日。お昼ごろから急に空模様が怪しくなりました。遠くで雷が光ると、畑仕事をしていた村人たちは一斉に家へと戻っていきます。冗談好きの主人も家へ戻りました。しかし、主人の家はたくさんの雲に囲まれたかと思うと、幾筋もの稲妻が大音響とともに落ちました。

 恐怖で頭を抱えこんでいた主人。我に返って「まさか」と思い茶釜を見ると、蓋がなくなっているではありませんか。主人は姿こそ見ませんでしたが、自分の声を聞いた雷神様が本当にやってきたと信じるようになりました。

 後日、なくなった茶釜の蓋が大穂町の麦畑で見つかりました。以来、主人は自分の冗談を反省し、蓋のあった畑のそばに祠を建て、茶釜雷神として祀るようになりました。

『大穂の昔ばなし』によると、この出来事があったので雷がなるとお茶を入れて供える風習がこの地で生まれたとか。いまも残っていたら面白いですね。

wata

冗談には冗談を。茶釜雷神だけにお茶目が過ぎるといいますか。。

茶釜雷神とされる水神宮

茶釜雷神を祀った祠を発見しました!下の写真がそうです。

茶釜雷神(水神宮)
茶釜雷神(水神宮)

『大穂の昔ばなし』では、愛国橋周辺の大穂の畑とのことですが、その場所にはありません。本当は大穂の畑から小貝川を渡った大園木にあります。つくばでなく下妻市でした。

砂子愛宕神社
砂子愛宕神社

はっきりした住所はわかりませんが、砂子愛宕神社を目印にしてください。神社を正面に見て、右手に見える水神宮が茶釜雷神です。『つくばの昔ばなし』に詳しく書かれていたのでやっとたどり着けました。

愛宕神社の場所は上記をご参照ください。

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神宮に「茂鹿氏子一同」とありましたので間違いありません。伝説と現実が結びつく瞬間を体験しました!

まとめとは

・ご祭神は上賀茂神社から分霊された別雷大神

・後冷泉天皇ゆかりの旗印「つぐみ龍」の紋が境内のあちこちにある

・「茶釜雷神」の民話の舞台

・御朱印は参道左手の社務所でいただける

参考文献

茨城県神社誌|茨城県神社庁
茨城県の歴史散歩|編:茨城県地域史研究会
いばらきの装飾社殿|河野弘
大穂町の昔ばなし|著 佐野春介/ふるさと文庫(筑波書林)
つくばの昔ばなし|編:筑波書林編集部